政談228
【荻生徂徠『政談』】228
●目付ならびに百日目付、伏見・奈良・山田等奉行の事
目付の役には今、欠けたものがある。衣服等諸事の儀に関する制禁の定めがあるものの、これを破った行為に対して咎める人がいない。このため「公儀の御法度は三日法度」と世上で言いはやしている始末。あるまじきことである。いろいろ仰せ出されることは、それぞれの支配の役目である。全体に対して仰せ出されたことは、目付の役目として、権門・高家を問わず、人情にとらわれず咎め、それぞれの支配に重々正すべきである。現在は制度がないため、下はなにをどう守ってよいかがわからず、目付も咎めようがないために、見て見ぬふりをしてしまう。だからこそ、これについても制度を確立させたいものである。
[語釈]●百日目付 次の段で「京都の百日目付」として出てくる。大坂目付のこと。京都に十日間在留、のち大坂で半年間在留して交代する。使番2人が任命。職務についても後段で。 ●「公儀の御法度は三日法度」 江戸時代における法令の遵守に対する世間の実状を端的に表した言葉として有名。本書と同時期に吉宗に上呈された川崎の名主の田中丘隅(田中休愚(たなか きゅうぐ)、寛文2年3月15日(1662年5月3日) - 享保14年12月22日(1730年2月9日))、江戸時代中期の農政家、経世家。大岡越前守忠相に見出され、その下で地方巧者として活躍した)の『民間省要』にもこの言葉があり、当時には広く使われ、幕府の法度に対する世間の認識もこのようであったことがわかる。当時の法令および取締は現代よりも厳しいように思われるが(十両盗めば首が飛ぶ、が代表的)、同じ法度をおよそ数年から数十年の間隔で繰り返し出したことからもわかるように、なかなか周知徹底されず、さりとて規定以上の重い処罰も出来ず、幕府の威信にかけて民に周知させることが第一であることから、何度も出した。「三日」というのは極端だが、軽微な規則ほどすぐに守られなくなるもの。今も、たとえば雨の日に傘を差したまま自転車を運転してはならないという規則が作られ、テレビでもその時は大々的に報じ、傘を差して走行している人にマイクを向けて規則を知っているか、いいと思っているのかを嫌味半分で聞くが、しばらく経つと守る人は減り、いつの間にか元の状態に。江戸時代なら、しばらく経つとまた注意警告を発したものだが、現代はそういうこともしない。これを国民性と言えるかどうかは分からないが、公儀といえば国家と同義。その公儀の御触れでさえのど元過ぎれば誰も咎めなくなる。徂徠は、こういうことがないために目付の権限を強くし、相手が権門・高家であろうと不法行為、規則に違う行為があれば厳しく対処できるようにすべきと述べている。
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