政談225

【荻生徂徠『政談』】225

(承前) 総じて百姓の奢りが盛んになって以降、農業を嫌い、商人となる者が近頃多くなり、このために田舎は殊の外衰微してしまった。このため、博奕や盗賊といった犯罪も止むことがない。人殺しなどが発生しても、その土地に奉行所がないため、江戸に報告するうちに日数が伸びてしまい、詮議もできない事態となる。さらに、江戸での詮議となると何かと物入りとなるために、江戸へ申し出ず、博奕や盗賊が野放し状態になっている。川除け・堤普請の類も、今は代官が江戸に居住しており、現地のことは不案内で、そのために手代任せにすることから、手代は江戸の町人と謀り、何事も江戸流で処理するために経費が莫大となる。このため、代官は大身の旗本で武備も兼ね備えた人でなければ、飢饉が続き、盗賊が横行するようになってしまっては、これを鎮めることができない。

 かつて天草の陣の時、肥後の川尻という船着き場に細川越中守様の蔵があった。その土地の代官を川北九太夫といった。物事に心得ある人で、平生、鉄砲の数を調べておき、浜辺の間数(けんすう)も測っておいた。天草で一揆発生との知らせを聞くと、すぐに浜辺に一間ごとに一本ずつ杭を打たせ、一本一本に火縄を挟み、三間に一挺ずつ鉄砲を配り、終夜にわたり鉄砲を撃たせた。一揆の者たちは籠城の準備のために川尻の米を強奪しようと船を出したが、おびただしい火縄が見え、鉄砲の音もしていることから、熊本の軍兵は既に川尻を固めてしまったと思い、途中で引き返したと、後で生け捕りにした者が証言していたという。もし、その時に川尻の米を奪われてしまったなら、天草の兵糧がたくさんとなり、城は簡単には陥落しなかったであろうことから、川北の行いは主人のため、天下のために、優れた勲功である。しかし、当時はこの事では評価されず、のちに川北が城攻めで一番乗りしたことから、それに報いて千石を頂いたのである。されば、代官は武備をしておかなければ務めがかなわぬ職である。勘定(財政)については奉行の指示を仰ぎ、老中か若年寄の支配にして、今より重い職として定めるべきである。


[語釈]●天草の陣 島原・天草の乱のこと。寛永14(1637)~15(1638)年。 ●細川越中守 細川忠利(1586~1641)。肥後熊本54万石の城主。肥後国は加藤清正以来、加藤家が治めていたが、家2代忠広が寛永9年(1632年)駿河大納言事件に連座したとされる罪で改易され出羽国庄内に配流となり、加藤家は断絶。代わって同年豊前国小倉藩より、細川忠利が54万石で入部し、以後廃藩置県まで細川家が藩主として存続した。細川家の最終官位は越中守。しかし、これも家格を表わすもので、越中国を治めたわけでもなければ、越中の出身でもない。


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