政談224
【荻生徂徠『政談』】224
(承前) 代官を文官とすることについて、国の守(かみ)・介・掾(じょう)・目(さかん)・郡司はいずれも文官であるが、平安時代には文武を兼ねるようになり、鎌倉の時分より武家で守護を置いたことから武を守護の役とし、代官は再び文官になったようである。願わくは二、三千石以上の大身の旗本に申しつけ、役名も変え、下役に今の代官ぐらいの人を任命し、武備も自然と備わるようにし、刑罰も軽い案件は代官所にて執行させ、専ら民間の治めを第一とし、農業に関しても民の知らないことがあれば教え、川除け・堤普請なども申しつけ、盗賊・博奕等、邪宗・邪法の類も取り締まらせることとする。
[解説]平和だった平安時代も、代官は武を兼ね備えた者とするようになり、鎌倉時代は武士の世となって守護職が武官となったことから、代官は再び文官の職となった。泰平の続く江戸時代では、武士が支配する世とはいえ、武を必要とする場面や状況は皆無で、そのため代官は文官でもよいわけであるが、威厳がないと軽く見られるし、治に居て乱を忘れずの精神から、代官は文官にして武官も兼ねるようにすべきと説く。これは文武両道ということとは違う。ちなみに、文武両道といったことは家康の時から言われてはいるものの、幕府としてはできるだけ諸藩の武力を低下させ続ける必要があり、また、幕府自身が行政を担当することから文官としての務めが多く、文が中心で武はそれに従属するものといった考えであった。もちろん、武士であるから、各人においては武の心得、嗜みは必要だが、組織としては軍隊にして軍隊にあらずといった現実的な務めが必要だから、武張ったことはあまり前面に出さず、自然と備わるようにするのが望ましいとする。代官も下僚も年貢の取立てが任務のすべてと思い込み、そのために手荒な事までする者がいるが、いかに年貢を規定の量が納められるようにするか、それもまた行政の務めであり、農業(林業・漁業も含める)に関する学問的な知識の理解と普及にも務める必要がある。吉宗以降、農民にも知識が必要であるといったことから読み書きを奨励するといった政策の大転換があり、寺子屋が急速に普及したり、農民の中からも学者や文人が輩出するようになったが、徂徠が生きていた時はまだ吉宗の政策が緒に就いたばかりで、農民の大半は読み書きができない状態だった。このため、代官が知識を噛み砕いて教えることが必要ということ。
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