政談223
【荻生徂徠『政談』】223
●代官という役の事
代官という役は至って重い役である。その昔、国郡の官を京に置き、その国郡には名代を派遣して置いたことから代官という名が起こった。公家の家来に受領をさせながら自身は京に居て使役し、その国の年貢徴収権を行使させ、また平家の公達(きんだち)も越前三位(えちぜんさんみ)・能登守(のとのかみ)・薩摩守(さつまのかみ)なども皆、その国へは行かなかった。郡司を在京させれば郡代を派遣し、丞(じょう)を在京させれば判官代(はんがんだい)を派遣し、目(さかん)を在京させれば目代を派遣させる。このため、いずれも文官であることから戦国の時分にはこれを軽んじて「腰ぬけ役」と言うようになり、今は勘定方の支配となって小身の者を任命し、しかもその下には手代と称して殊の外身分の軽い者をつけ、年貢の取立てより他には役目がないと思っているが、とんでもないことである。その身は出世の望みもなく、下等な役儀となり、しかも小身なるゆえに悪事を働いて処罰される者が絶えない。
[語釈]●国郡の官 遥任(ようにん=名目上の任命で、実務を執らなくてよい)の官のこと。奈良時代末に始まったもので、国司が任国へ赴任せず、目代(もくだい。名代)を派遣させた。 ●受領 ずりょう。遥任と区別して、実際に任国に赴く諸国の長官。 ●越前三位 平資盛(たいらのすけもり)。平安時代末期の平家一門の武将。平清盛の嫡男である平重盛の次男。母は藤原親盛の娘。位階は従三位まで昇叙、新三位中将と称された。和歌に優れ「新勅撰和歌集」「風雅和歌集」に名を残している。 ●能登守 平教盛(のりもり)。平安時代末期の平家一門の武将。平忠盛の四男。平清盛の異母弟。母は藤原家隆の娘(待賢門院に仕えた女房)。平通盛、平教経の父。保元の乱、平治の乱で兄の清盛に従って戦う。邸宅が六波羅の総門にあったことから門脇殿と通称され、さらに平氏政権での栄達に従って門脇宰相・門脇中納言と呼ばれた。鹿ケ谷(ししがたに)の陰謀事件では娘婿の藤原成経が罪に問われたため、その赦免に奔走した。治承・寿永の乱では主に後方の守りについた。一ノ谷の戦いで嫡男の通盛を始め子息を失う。壇ノ浦の戦いの敗戦の中で兄の経盛とともに入水した。 ●薩摩守 平忠度(ただのり)。平安時代の平家一門の武将。平忠盛の六男。平清盛の異母弟。治承2年(1178年)従四位上。治承3年(1179年)伯耆守。治承4年(1180年)正四位下・薩摩守。歌人としても優れており藤原俊成に師事した。諱(いみな)が「ただのり」であることから、忠度の官名「薩摩守」は無賃乗車(ただ乗り)を意味する隠語として使われる場合がある。狂言『薩摩守』では渡し舟に乗り、「平家の公達、薩摩守忠度」と言って舟賃を踏み倒そうとする僧が登場しており、かなり古くから知られた語呂合わせであったと見られる。 ●郡代 武家時代の職名。郡司の代官ではない。 ●丞 律令制の八省の第三等官。国司の第三等官(判官)には「掾」(じょう)の字を用いたが、江戸時代ではこの字が広く使われ、徂徠もそれに従っている。特に深い意味はない。 ●目 国司の第四等官(主典)。国司は中央官人が6年(のちに4年)の任期で赴任し,その下に多数の現地出身の属吏がいた。職員令の規定によると一般の国の守は,祠社,戸口,簿帳,百姓の字養,農桑の勧課,所部の糺察,貢挙,孝義,田宅,良賤,訴訟,租調,倉廩,徭役,兵士,器仗,鼓吹,郵駅,伝馬,烽候,城牧,公私の馬牛,闌遺の雑物および寺,僧尼の名籍のことを司り,陸奥,出羽,越後等の国はそのほかに饗給,征討,斥候を司り,壱岐,対馬,日向,薩摩,大隅等の国は鎮捍,防守および蕃客,帰化を惣知し,また三関国(伊勢,美濃,越前)は関剗および関契のことを司った。 ●目代 耳目の代わりとなる者という意味。国守の私的代行者。目(さかん)の代わりという意味とは違う。
[解説]続いては代官の職について。古来より「能登守」「薩摩守」といった国司の制度があったが、能登守に任ぜられた者は実際に能登の国に行って執務をするのではなく、自身は京都にいて、配下の者を現地に行かせて国司の役を代行させた。これより代官という名が起こった。守(かみ)以外の下級の官吏も同様で、郡司が現地に郡代を派遣し、丞が判官代を、目が目代を差し向けた。今と違い、現地への往復や居住、通信すべてが難渋を極めたから、その土地の責任者を現地に住まわせてしまうと、緊急の事態に即応できない。そのため、責任者は京都に留めて朝廷との折衝にあたり、現地の仕事は代官に委ねた。初期の頃はそれでよかったものの、長い年月が経つうちに形骸化し、代官やその属吏たちは年貢の取立てだけが任務という“常識”が広まって、もう一つの「治める」ことをまったくしなくなってしまった。徂徠はこれについて批判をし、改善策を述べてゆく。なお、江戸時代になると「守」は完全に有名無実の官名となり、能登守に任ぜられたからといって能登の国の領主になるわけではない。官名と実際の領地が符合する大名もいたが、多くは官位を示すものとして使われた。時代劇では決まって代官が悪役となり、「悪代官」という言葉さえ一般化した。時代劇では賄賂で私腹を肥やし、特定の商人に便宜を図り、農民には冷酷、若い娘と見ると手を出すといった愚物として描かれているが、代官はあくまで幕臣であれば幕府、藩の代官であれば藩に仕える身だから、賄賂をせしめて便宜を図るといったことまでする権限はなく、そんなことをすれば首が飛ぶ。徂徠が言うように、上司のため、自分のためにとにかく年貢(租税)を完納させることにのみ励み、農民の窮状など無視して取立てを強行するといったことが多く、それで嫌われた。あまりの代官のひどさに訴え出る村が常にあり、確かに行き過ぎがあったり素行の悪さが認められた場合は、その代官が更迭されるということは意外にもよくあった。そういう者を現地でのさばらせては、中央や藩主の名折れであり、沽券にかかわるからである。御用商人はきっちり決まっており、代官の身分でそれを変えることはできないし、不可能。これが身分社会であり、その点はきっちりしていた。
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