政談222

【荻生徂徠『政談』】222

(承前) このように諸役の分掌はそれぞれ別で、それに相応しい器量もあるのに、現在は大名が就任する老中・若年寄・寺社奉行以外はほとんどが旗本が目付から出世することから、どの役もまるで目付のようになっている。また位階勲等といった制度がないために、出世の道や位がほぼ決まっており、一つの役を十年も二十年も一代に渡るほどもじっくり勤めることがなく、役に相応しい器量の者を選んで担当させることもなくなってしまった。


[解説]当時は家格によって出世コースと最終の地位がほぼ決まっていた。今は公務員試験の種類によってキャリア組とノンキャリア組に分かれてその後が決定される。さらにキャリアでも配属される省庁によって同じ課長や部長でも格が違うし、省内でも出世コースの部局とそれ以外の傍系に分かれる。誰でも試験を受けてなれる役人の世界だが、入ったあとは江戸時代とほとんど変わらない。よほど人事評価をよくするための本来とは違った努力をして異例の昇進をするか、時の政権が情実にとらわれず優秀な者を抜擢するといったことでもないかぎり、決められたコースをそつなく勤めて老後につなげるといったことを第一に考えるようになる。公僕とはいっても、本当に国民のために働こうとすると政権の意向と齟齬をきたすことがあり、それでも貫こうとすると疎ましい存在として目されてしまう。役人の世界は組織で動くのは当然であり、人事がある程度決められているのは当然だが、徂徠はの部長や課長はその部署に精通し、しかも長として人望のある者を家格にとらわれず就けるべきとする。この意見は現代でも活かすべきで、もっと言えば大臣も財務なら財務、文部科学なら学問教育の専門家、精通する者を当てるべきで、国会答弁でいちいち後ろから役人に教えられる姿は醜態以外の何者でもない。質問が事前通告されているのも、本番では大臣が質問の趣旨をよく飲み込み、答弁も自分の頭でできるようにお膳立てしているわけで、そういう勉強をすることさえせずに、本番は役人から教えてもらうからそれでいいという態度では、まったく議論にならない。以前は文部大臣(当時の職名)などに民間の専門家を当てることがあり、これが正しい姿だが、今はすべて政治家、しかも首相と親密あるいは気心の知れた者しか登用しないため、選ばれる者が限られる。当然、知識も教養も人格も一定水準を保つことが困難で、問題のある者が逆に登用されやすくなる。当然のごとく不祥事が発覚したり暴言を吐く問題行動が起きるが、その者を更迭しても他に登用する仲のよい者がいないため、自分のメンツとあわせて「問題なし」として続投させる。こうなると、何があっても許されるということがその内閣での既成事実となり、安心感から弛緩し、増長してますます水準が下がり、ついには底が抜ける。国民は決してこのような不良状態を望んではいないが、江戸時代と違い、今は「選挙によって選ばれた」という強みがあるため、「いやなら次の選挙で落とせばいいだろう」と開き直り、選挙で選ばれたことを白紙委任とさえ受け取って公約にないことをやる。「信なくば立たず」は政治家たちがよく口にするが、信頼を自ら捨てて平然としている。かつては政治家たちは次の選挙に対する心配と恐れがあり、それが自制心として働いたものだが、今はそういう思いもなく、未来永劫、我が世が続くという思いが強い。この自信はどこから来るのか。それとも思考停止状態だからそう思えるのか。


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