政談221

【荻生徂徠『政談』】221

(承前) 目付は殿中監察の職である。非法を正すのを当職の任務とする。法制に通じていなければとても務められない。現在、老中や若年寄の使い者のようにされているが、これは若年寄に部下がいないからである。

 寺社奉行は寺社の治めを第一とし、僧侶・神職等に不法がないように監督するのが務めである。されば、寺社の故実に詳しくなければならない。

 勘定方は計算の職で、他に兼ねるものはない。

 町奉行は町の治安を第一とし、町人に悪人が多くて町内が乱れた時は、町奉行の過失となる。

 寺社奉行も勘定方も町奉行も、今は訴訟を裁くことが中心となり、本来の治めるという事については疎かになっている。治めが悪くなれば訴訟も悪事も収まらない。公事(くじ)の事は公事奉行を立てて法律に詳しい人を任用すべき。


[語釈]●監察 原文は御史(ぎょし)。御史は中国の官名で、秦・漢以降、監察や糾弾を司った。日本における監察=目付は中・上級の役人(旗本・御家人)に張り付いて常時監視するという独特の任務を帯び、対象の役人に不正や非行があればただちに若年寄に通報した。若年寄の配下ではあるが独自の権限を持ち、時には裁判も行った。部下として徒(かち)目付、その下に小人(こびと)目付がいた。町奉行などに任命されるには目付の経験が必要。常時監視する役のために役人たちからは嫌われたが、それだけに実効はあった。むしろ現代のように弛緩した世の中のほうが必要なぐらいである。大名に対しては大目付が担当し(ほかに高家や朝廷も監視)、老中の配下。このため、大目付は大名が任命された。


[徂徠逸話]本書を見ていると、政治家・役人は完全無欠な聖人君子のような人でなければならないと言っているように思える。もちろん、老中(閣僚)のような重職者は公平無視、大所高所から情勢を総覧し、さまざまな知識と判断力で的確に処理できる者でなければならないから、立派な上にも立派な人でなければならない。言葉や態度が横柄で人を馬鹿にしたような者は失格であるとする。しかし、各役職の担当者については、その分野の専門的な知識と、基本となる教養は必要だが、それ以上のことは特に要求していない。これは徂徠の人柄による。江戸時代は民間の学者のほうが弟子や聴講者、信奉者が多く、弟子の多さでは徂徠と木下順庵(きのした じゅんあん、元和7年6月4日(1621年7月22日) - 元禄11年12月23日(1699年1月23日))、儒学者。名は貞幹、字(あざな)は直夫、通称は平之允、号は順庵・錦里・敏慎斎・薔薇洞。私諡を恭靖と言う。京都出身。江戸に出たが、のち加賀前田家に仕えた画像は中国の儒者の服装をした順庵)が双璧をなした。順庵門下には新井白石がおり、白石は徂徠と生涯にわたりライバルとなったが、白石に代表されるように真面目な努力家が多かった。これに対して徂徠門下は多士済々で、頑固一徹から酒乱の者までさまざま。「あの素行が悪い弟子をどうにかしてくれ」「破門にしたらどうか」「徂徠先生は口では聖賢の道を説くくせに、弟子の躾はできないのか」といった苦情や批判、陰口が紛々だった。これは、徂徠がいい加減だったり弟子の教育ができなかったのではなく、弟子の人格・個性をそのまま受け入れ、認めたからで、「人はそれぞれ瑕疵(かし=傷・欠点)がある。乱れた所があっても、そういう者こそ自分の所に置いておかないと良い所が伸びずに終わってしまう」として、自分から破門することはしなかった。一人も破門させなかった人間国宝の故・桂米朝師に通じる所がある。徂徠が人材登用を口にする時は、常に性格(素行)よりも教養や手腕を評価することを念頭に置いていると見たほうがよい。もちろん、老中について述べているように、重職を担うようになると、おのずから言動も重くなり、それが品格として立派になることになり、重職を担ってもなお下品な者はさっさと変えたほうが世のため人のためということである。

木下順庵肖像


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