1925年5月23日 北但馬地震

1925年5月23日 大正14年

【内 閣】

総理 加藤高明/外務 幣原喜重郎/内務 若槻礼次郎/大蔵 濱口雄幸/陸軍 宇垣一成/海軍 財部彪/司法 小川平吉/文部 岡田良平/農林 岡崎邦輔/商工 野田卯太郎/逓信 犬養毅/鉄道 仙石貢/内閣書記官長 江木翼/法制局長官 塚本清治

【元 老】

西園寺公望

【宮中主要官】

内大臣 平田東助/宮内大臣 牧野伸顕/枢密院議長 浜尾新/枢密院副議長 一木喜徳郎

【軍部高官】

[陸 軍]

陸軍次官 白川義則/軍務局長 畑英太郎/参謀総長 河合操/参謀次長 武藤信義/教育総監 大庭二郎

[海 軍]

海軍次官 岡田啓介/軍令部総長 山下源太郎

【植民地高官】

朝鮮総督 斎藤実/台湾総督 内田嘉吉/関東長官 児玉秀雄/樺太庁長官 永井金次部/南洋庁長官 横田郷助

【東 京】

府知事 宇佐美勝夫/市長 中村是公


兵庫県但馬地方でM6.8での大地震(北但馬地震)。城崎温泉が全滅、死者行方不明428人。

北但馬地震あるいは但馬地震は、1925年(大正14年)5月23日午前11時11分、兵庫県の但馬地方北部で発生した地震。地震の規模はM6.8で、当地ではこの地震による災害を、もしくは地震そのものと災害を含めた形で「北但(ほくたん)大震災」と呼んだ。最大震度は兵庫県の豊岡、城崎(いずれも現在の豊岡市)で観測された震度6(当時の震度階級による最大震度)。その他、兵庫県、京都府、滋賀県で震度5、岡山県、鳥取県、和歌山県、三重県で震度4をそれぞれ観測。震源地は現在の豊岡市中心部付近(北緯35.6度、東経134.8度)。

 死者:428名

 負傷者:1,016名

 全壊:1,733棟

 半壊:2,106棟

 一部損壊:45,659棟

 焼失:2,328棟

 全焼:1,696棟

この地震は、円山川流域、特に豊岡、城崎の町に甚大な被害をもたらした。揺れを感じる直前には、円山川の河口付近において、海側から大砲のような音が断続的に聞こえ、地震発生時には、豊岡の町で地面が16秒間に4回も強く波打ったという。当時の建築物は木造が大半であったために、地震の初動で建物の多くは一気に倒壊した。折しも昼時で、炊事のために火を起こしていた民家や旅館の倒壊に伴い、瞬く間に火の手が上がった。この火災により、豊岡では町の半分が焼失し、城崎では272名(人口比で8.0%)という多数の死者が生じた。犠牲者の大半は炊事中に家屋の倒壊に巻き込まれ、脱出できないまま焼死した女性たちであり、「北但大震災の最大の犠牲者は城崎の女性である」とまで言われている。一方で、震源地付近と考えられる港村田結(現在の豊岡市田結)では83戸中82戸が倒壊、10カ所前後から煙が上がったが、住民が救助より消火を優先したことにより延焼は食い止められ、住民約440名中7人の圧死者を出すにとどまった。なお鎮火後に救助が行われ、倒壊家屋から58人が救出されている。震災後に断層調査に来た地震学者の今村明恒も、「震災国日本における模範的な行動」と賞賛した。但馬地方北部、円山川流域のこの地域は三方を山地に囲まれ、残る北部は海に隔てられているため、元々陸の孤島に近かった。地震により交通網が寸断されたために、周辺の町の消防団や陸軍・海軍の救護隊が到着するまでに丸一日かかり、救助の初期活動が著しく滞った。そのような中で豊岡中学校の生徒約500名が倒壊家屋からの生存者救助や消火活動などに従事し、臨時の救助隊として大きな働きをした。 円山川の改修に従事していた朝鮮人労働者の多くも救援に奔走しており、後に県知事の表彰を受けている。また鳥取高等農業学校(現在の鳥取大学農学部)の生徒がいち早く城崎に駆けつけ、ボランティア活動を展開した。この地震は、関東大震災やその後に関東地方で地震が頻発したことによって広まった「地震は関東で起きるもの」という先入観を打ち崩した。地震後、豊岡や城崎では、道路幅拡大や耐火建築の促進など、地震・火事に強い町を目指して震災復興再開発事業を成し遂げた。

アメリカの微生物遺伝学者レーダーバーグ(Joshua Lederberg)生まれる。

失業統計調査令公布。

失業統計調査令(大正14年 5月23日勅令第202号)

実効性喪失

過去の出来事

過去の本日の朝廷や江戸幕府の人事一覧、その他の出来事を紹介します。ほかに昔に関する雑記など。