政談219
【荻生徂徠『政談』】219
(承前) 右に述べたように、各職掌を分けたならば、それぞれ専門・得意とする者を配するのがよい。御側衆(おそばしゅう)は昔の納言(なごん)、明(ミン)朝の通政使に当たり、下からの申し出を主意を違えずよく聞き届け、付け加えたり遺漏がなく、詳しく上申することに専念させる。上の機嫌をとるために、またはひいきのために私心にて下の気持ちをふさいでしまうのは越権行為である。頼む側は平身低頭となるため、聞く側は威勢がよくなるのは人情である。が、これは権力を笠に着た大罪である。自分の才智を抑え、理性を以てよく聞き分け、私心がない人を任用すべきである。
[語釈]●御側衆 「御」は公儀の職に冠した敬語で、正しくは側衆。将軍の側近。3日に1度の宿直勤務があり、将軍の就寝中の当番を務めた。将軍の警護や、将軍が就寝中に老中などによって持ち込まれた政策などを取次ぐのが本務。また、将軍の親任をうけて御側御用取次や御側側用人に取り立てられる場合があり、それ以外の平側衆は主として2000ないし3000石の家禄の上級旗本が番方系の役職を進んで最後に就任する役職。紛らわしいが側用人とは別。今の首相秘書官に当たり、首相補佐官と比べて責任の度合いが軽い。とはいえ、軽重は単純には言えず、故意にいろいろな職を増やすことで却ってわかりづらくさせる場合はなおさら責任の所在があいまいにされることが多い。ちなみに、宝永3(1706)年5月19日現在の幕府の側衆と側用人は次の通り(判明している分であり、完全ではない)。側衆のほうが雑用が多く、宿直当番もあるために人数が多い。実際はこの倍はいるはず。
[側衆]安藤信濃守定行 水野飛騨守重矩 水野肥前守忠位 一柳土佐守末礼 溝口摂津守宣就 中川淡路守成慶 保田越前守宗郷 宇津出雲守教信
[側用人]松平右京大夫輝貞 松田志摩守貞直 竹本土佐守長直 松平伊賀守忠周
側用人は将軍と老中の中に入るために顔がきくようになり、ここから権力を持つ者が輩出した。柳沢吉保、田沼意次など、現在は腹黒い政治家というイメージが強いが、こういった人たちの多くが側用人から出世した。
[解説]徂徠は側近は私心がなく、伝達役として忠実に服務する人を御側役として任用するように迫っているが、それだけ忠実でない人が多かったことを示している。徂徠自身、柳沢吉保の推挙で将軍綱吉に目通りがかない、若くして政治について諮問されるまでになった。時代劇では悪役の柳沢の推挙となると私心そのものという印象だが、徂徠は幕府に正式に任用されたわけではなく、あくまで私的に考えを聞かれ、個人的意見を申し上げる立場であり、けじめはきちんとしていた。だからこそ、徂徠は堂々と任用について言えるわけで、自分がひいきされて正式に高官として任用された身であれば、とてもこんな偉そうなことは言えない。本書が執筆されたのは吉宗の時だが、吉宗との関係も同じであり、あくまで政治にも詳しい民間の学者としての立場にすぎない。実は、こういう境遇は孔子に似ており、江戸時代の儒者たちは孔子に少しでも近づくのが夢であり、目標だったから、徂徠はそういう自負があったかもしれない。正式に儒官となり、昌平坂学問所の教授になってしまうと役人であり、最後まで民間人だった孔子とは違ってしまうことになる(孔子は一時期、王室から迎えられて行政の一員となったことはあるが)。
※ 解説は当初敬体(です・ます調)でやっておりましたが、常体に統一することにしました。
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