政談212
【荻生徂徠『政談』】212
(承前) 昔は寺社に格付けがあったからこそ、『神名帳』というものがあった。社の中に末社を建て、寺の中に堂を建てるのも思いのままで、その数がどれほどあるかわからない。あまりに数が多いため、仏神の威光も霊験もおのずから衰退するのはなんとも浅ましいことである。業平(なりひら)天神というのは、業平という相撲取りの墓に何者かが小さい祠(ほこら)を建てたのが、いつしか在五中将(ざいごちゅうじょう)のものとなった。小六(ころく)明神というのは、小六という馬方を祀る。根津権現(ねづごんげん)というのは、青揚院様のご家中で根津某という軽輩者が処刑され、それが祟ることを恐れて小さい祠を建てたものだが、のちに女中が丁重に扱うようになり、今はとても立派なものになった。こういった類は数知れずある。
私が赤城の同心の地を借りて住んでいた時、屋敷内に稲荷の祠があった。以前、ここを借りて住んでいた人が建てたものだが、当時はそれを知らず、やがてその地を同心に返す時、この社をどこへなりとも移せと私に言った。それで初めてこの祠が前に住んでいた人が建てたものと知ったことである。私が住んでいた屋敷をそのまま次の人が居住すれば、祠もそのままでよいだろう。そのうちに同心の古老が亡くなればこの祠の来歴を知る人もなく、後はどうなることか。こういった類もまた世上には多くある。
寺社奉行は公事訴訟に関する仕事ばかりして、本来の寺社の治めはほとんどしない。そのため、何事も下の者の思うがままで、上がってきた事しか知らないのだから、どのような事が起きているかがまるでわからない。今年は鹿島のあたりから阿波大明神の祭りを渡すということが流行り出し、村々に神輿を渡し、下総(しもうさ)・上総(かずさ)の内を練り歩き、上総の中原という所に社を建てて神輿を納めた。本社もなく、まるで天狗技のようである。これも田舎に武士が住んでいないから咎める人がない。これは一例で、今は諸役人が明確な職掌がないためにこのようなことが起こるのである。
[語釈]●『神名帳』 『延喜式』巻九および巻十に大社492と小社2640が記載されてあり、これを『神名帳』という。この他、諸国で独自に作成した『神名帳』もあった。 ●業平天神 本所(墨田区)中之郷にある。相撲の墓とも、成平という武士の塚とも伝えられている。 ●在五中将 在原業平(825-880)のこと。平安時代の歌人。『伊勢物語』の主人公とされる。在五は在原氏の五男であったことにより、中将は最終の官位が右近衛権中将(うこんえごんのちゅうじょう)であったことから。杜甫を杜工部、王義之(おうぎし)を王右軍といったように、中国の詩人や文人を官名で呼ぶことがあり、これに倣ったもの。 ●小六明神 古呂故(ころこ)宮ともいう。現在の赤坂にある氷川神社。赤坂一木(あかさかひとつぎ)の小六という馬子が氷川大明神を信仰し、当地に勧請したと伝えられる。 ●根津権現 文京区本郷にある。3代将軍家光の第三子で甲府藩主となった徳川綱重(1644-78)の家臣の根津宇右衛門の霊を祀るとされる。綱重は6代家宣の父でもある。 ●青揚院 原文は揚を陽に作る。綱重の院号。 ●赤城 新宿区牛込の地名。
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