政談211
【荻生徂徠『政談』】211
(承前) 新寺・新社の制度を決めたが、これも江戸城下ばかりが対象となっているような状況で、城下でも武家屋敷・町人屋敷の中にある社は誰もその存在を知らない。田舎は地頭も住まず、代官もいない所では開け放したままとなっている。小さな社や堂を新規に建てても咎める人がいない。信仰する人がおり、さらに修復や建立する人がいれば、たちまち大社や大堂となるが、これもその土地以外では知る人もない。いわれもないのに神主が氏子を勧進して金を集め、京の吉田家へ願い出れば、正一位さえもたやすくなることができる。住持を勧請(かんじょう)して寺を開けば、いつの間にか宗派の高い寺になるが、奉行はこういったことは知らず、五十年も経てばどこにも記録がなく、覚えている人も五十年も経てばどこにも記録がなく、覚えている人たちも死に絶える。そして、いつの間にか大社・大寺となる類が多い。これも寺社の定まった規則がないためである。
[語釈]●新寺・新社 寛永8(1631)年に幕府は江戸において新たな寺の建立を禁止。この年が古跡と新寺の基準となった。徂徠が言うように、武家・町人の大きな屋敷内での社は建立されてもわからず、ましてや武家地内は町奉行の管轄外であり、外様大名ともなれば幕府の干渉を受けないため、建立は野放し状態。地方ともなれば住持を得て檀家らで資金を出し合って寺社の建立をしても、城下でなければ武士は年間を通じて街道筋以外はほとんど来ず、幕府が制度を作って発布しても有名無実となった。「三日法度」という言葉もあったように、当時は幕府で禁令を出してもそれが守られるのは直後だけ。日が経てば誰も彼も無視する。取り締まる側もまた次第に放任状態となった。これもまた、幕府成立の時点で明確な法制を打ち立てず、常に場当たり的に発布するため、個々の法度に対して人々の間で遵守しなければという意識もなかなか定着しなかった。「~を禁ず」という法度は次々と出されるが、それの法度はどういう意図があり、守ることでどんな意味があるのかといった根本を幕府は明示しなかったから、とにかく禁令だからそれについては控えようと上辺だけ従い、その意味を理解していないからしばらく経つとまたやらかすようになる。社寺の建立についても同じ。
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