政談210
【荻生徂徠『政談』】210
(承前) 寺社のうち、特に大寺・大社は遠国のものまでよく調べておく必要がある。それは、大寺・大社は遠国でも国守の支配に漏れているからである。それぞれ格の上下や地位の軽重により分類し、由緒や系統については奉行所で記録しておくべき。何もかも帳面に記録をしないために、何か処理をするにもそれが適切ではないことばかり。例えば、春日・八幡などが修復を願い出た時はそのまま受理し、熱田・鹿島などが願い出た時は、これもそのまま受理したが、その後、出雲大社が願い出た際、かねてより日本国中の大社はいろいろと階級を立てて、しかも明確な定めがなく、どれが上、どこが下、どこがどういったものという位置づけがないために、判断がし難い。これも制度がなく、下からの申し出があって対処するから、的中するといったことがない。
[解説]寺社は寺社奉行の管轄であるものの、教義や信仰そのものには立ち入れない。当時は神仏習合で寺と神社が一緒というのが普通だったが、神社はいろいろな格があり、それが明確ではないために幕府で扱いに困ることがよくあった。そのため、何か訴えがあれば聞き、前例に照らして判断するという方法しかなく、徂徠はこの在り方も批判している。キリシタンや一向宗などは厳しく監視したが、もともと日本は多神教、八百万の神を祭る風土であることから、区別したり等級をつけることは難しい。しかし、すべてを平等にしようとしても、神社には「大社」があり、その他の神社とどう違うのかが門外漢にはわからない。鹿島や八幡は武家の守り神としてなじみもあるが、出雲大社は当時は遠い存在であり(地理的だけでなく)、よくわからない。「大社」はほかに三嶋(三島)や伏見稲荷、熊野、住吉、諏訪など各地にあるが、もともと「大社」といえば出雲を指し、他には熊野大社だけだった。あとは官幣大社、国幣大社といったもので、「延喜式」(えんぎしき)による分類であるものの、江戸時代には仏を祀る寺となった神社、僧侶が管理した神社(石清水八幡宮など)といったものもあって分類や等級づけがますます明確ではなくなった。それに、歴代天皇が仏教に帰依し、退位とともに出家する上皇が多く、神道は下火となっていた。慶應4年3月17日、神祇事務局が全国の神社に対して別当と社僧に対して還俗令を発し、同28日、太政官より仏語を神号としている神社、仏像を神体としている神社に対して由緒書の提出を命じた。一連のこの動きが神仏分離である。これに勢いを得たのが反仏教派の平田国学と水戸学の国粋主義者たち。この時とばかりに世間にデマを飛ばして廃仏廃寺を煽ったことから、各地で石仏の首を破壊するといった蛮行が展開された。つまり、明治政府そのものはあくまで神仏分離を発したのであり、過激な今で言う右翼たちが廃仏毀釈の直接行動に出て、これが結果的に維新政府の恐さを世間に思い知らせるとともに、政府にとっては楽に神道を優位にする動きに出ることができた。これ以降、新たに全国の神社の格付けが行われ、戦後、新たに大社を名乗る神社が続出した。江戸時代に徂徠が提言した格付けがなされていたら、維新政府や右翼たちによる過激な行動は封じることができたかもしれない。まことに徂徠は先見の明があり、これを採用しなかった吉宗の不明さが悔やまれる。
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