政談208

【荻生徂徠『政談』】208

(承前) 総じて今の有様はといえば、役人は我が支配下を治めるという意識が全く無く、何事につけても下からの申し出がなければ、あらかじめそれについて知っていても何もしようしない。申し出があった時に限り、その事だけを処理する。これが執政以下の今の役人の役目となっている。たとえ申し出がなくても、役人として良し悪しを熟知しており、その上で申し出があれば動くというのならかまわないが、自分の見えない所で隠れてなにが起きているかも知らないのに、申し出があったことだけを処理するのであれば、先例や先格のある事はそれでうまく行くこともあろう。しかし、先例も先格もない事に対しては、目先の考え・判断で場当たり的に処理するしかなく、必ず差し障りが生じる。

 特に老中や若年寄は政務全般を司る役人であるから、天下のことはすべて知り尽くしているのが当然である。されば、何事に対しても処理の仕方がうまく図に当たるものである。例えば、国境(くにざかい)、郷村境、山公事(やまくじ)など、明確ではない所での公事が絶えることがないが、これはもともとその地域を支配すべき人がよく理解していないために争いが起きる。よくその地方の事を知っていれば、事が起きた場合には下からの申し出がなくても処理ができるように、幕府の制度を立てていただきたいものである。


[語釈]●山公事 山林の所有権や境界などに関する訴訟。土地の境界と水の使用・権利に関する争いが絶えず各地で起こっていた。藩内であればその藩で処理できたが、他の藩同士あるいは藩と天領(幕府直轄地)との境界や境界をまたぐ山林の場合は幕府が一括して引き受けた。このため、訴訟の当事者たちは江戸に出向かねばならず大変だった。とはいえ、昔の人は現代人のようにせっかちではなかったから、江戸滞在中(おもに公事宿に宿泊)は江戸見物をし、あまり日数がかかりそうな場合はいったん帰国してまた出直したりして、本来は訴訟でいら立っているはずなのに、こういう機会でもなければほとんどできない旅や名所見物を楽しんだ。赤穂浪士たちがいよいよ江戸に集結するという段になった時も、大石父子は息子の主税良金(ちからよしかね)が訴訟のために江戸に来たという触れ込みをし、父で頭領の内蔵助良雄(くらのすけよしたか)はその後見人ということにした。嫡男とはいえ、家督を譲られていない間は部屋住み(無職)で旅行は気軽にできない。庶民は神社仏閣への参拝、温泉場での湯治といった名目があれば手形さえ整えば問題なかったが、武士は他藩へ行くことすら厳しく禁じられていた。浪士たちの元禄時代は江戸後期にくらべればまだまだ旅行は容易ではなかった。そういったことから、主税を元服させたうえで、江戸滞在の名目上の必要から主税を訴訟人とし、内蔵助を隠居で後見人ということにした。旅籠(はたご)の宿泊は病気など不慮の事態を除いては連泊は禁止。病気の場合もその土地の役所に届け出て確認の上で許可が必要だった。これに対して江戸の公事宿は、奉行所での受付けから審理、裁きまで数週間から数か月かかるため、必然的に連泊となり、許されていた。江戸の公事宿は、馬喰町(ばくろちょう)小伝馬町(こでんまちょう)旅人宿、八拾弐軒(はちじゅうにけん)百姓宿、三拾軒(さんじっけん)百姓宿(三拾組百姓宿)、十三軒組があり、それぞれ仲間組織を形成して独占営業権を与えられていた。公事宿では1泊2食付きだが部屋での食事はできず、宿泊客は朝夕の決まった時間に台所で食事をとり(さながら民宿のごとし)、ほとんどの宿には風呂がないため近くの銭湯へ出かけた。京都や大坂にも公事宿があり、こちらのほうが待遇はよかった。公事宿に滞在中の公事費用や諸雑費の負担は公事方御定書(くじがたおさだめがき)に明記されており、村の責任で訴訟が行われる場合は村の負担となり村人の持高に応じて拠出、村人個人の利害と責任で行われた訴訟の場合は当人の負担。当人に責任負担能力のない場合は親類、五人組に対してその持高割で拠出させた。絵は旅人宿が並ぶ馬喰町界隈。江戸に来た旅人や商人は治安維持のために馬喰町の宿泊が定められていた。また、関東代官の管轄する関八州(上野・下野・常陸・上総・下総・安房・武蔵・相模)から訪れた者の公事訴訟や裁判などの係争事を代官屋敷で裁いた。そのため馬喰町の旅人宿に長逗留せざるを得ない人達で賑わっていた。馬喰町の地名について。馬の素質の良否を見分ける馬想見の専門家を博労(ばくろう)と呼んだが、牛馬の売買や病気治療も行なう人の住む博労町の地名から正保年間(1644~48)に同音の馬喰町に改めた。博労あるいは馬工郎の字をあてたのは、中国周代の名馬鑑定人孫陽(そんよう)の称号「名伯楽(めいはくらく)」で、その伯楽の中国音が転じたもので、鎌倉中期から文献に登場する。江戸は家康が入府してから開発された土地のため、関西に比べて歴史ある地名がほとんどない。どの地名を見ても江戸時代に名付けられたもので、特にもとの江戸府内は紀尾井町(きおいちょう=この地にあった紀州徳川家中屋敷、尾張徳川家中屋敷、彦根井伊家中屋敷各家の文字を1文字ずつとって町名とした)や御徒町(おかちまち=江戸城や将軍の護衛を行う下級武士、つまり騎乗が許可されない武士である御徒(徒士)が多く住んでいたことに由来する)、銀座などに代表されるように、江戸時代そのものといった地名が多い。


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