政談207

【荻生徂徠『政談』】207

(承前) 幕府として全国を治めるための法がないために、遠国(おんごく)の出来事を在江戸の奉行が裁こうとしても埒が明かない。このため、軽輩の役人を検使として派遣すると、現地で賄(まいない)を取る。証拠がないと裁くことができないため、なんでもいいからと小田原(後北条)、または信玄公や太閤(秀吉)の時分の奉行の書き付けたものを証拠として採用する。これらは戦国時代のもので、今とは時代が違うものを証拠にするなどとんでもないことである。さらにはもっと前の室町家あるいは鎌倉、あるいは昔の綸旨(りんじ)を証拠に引く例もあるが、これではどうしようもない。こういったことは奉行職にある者が何事も先例を根拠とする習慣のためで、引いてはならない先例まで引く。これもみな幕府に定まった法がないからである。


[語釈]●綸旨 天皇の意向を蔵人(くろうど)が承って発した文書。天皇が自身で法令など何から何まで発することは専門的な知識も必要で大変であるため、勅語、勅諭など(これらも草案は担当の臣下が起草)を除いては、綸旨として発した。誰が作成したものてあろうと、ひとたび綸旨として発した以上はこれも天皇のおことば、御意思となるため、訂正や修正、再発布はできない。「綸言汗のごとし」と言われた由来でもある。しかし、悪意のある者はこういうのも逆に利用し、いわゆる「偽綸旨(にせりんじ)」が鎌倉時代に盛んに出回った。多くは京都で落書(らくしょ)として張り出されたもので、偽物のようだとわかっても、天皇に確認しなければ本物だと畏れ多いから、勝手にはがしたり破いて捨てることもできない。といって、「これは本物でありましょうや」と聞くことは天皇を疑うことにもなるためなかなかできない。結局、そのままにされる状態で、以下の有名な落書(1334年8月に京都二条河原に立てられもの)にあるように、京都の名物にまで数えられてしまった。それほど多かったということ。

 此比(このごろ)都ニハヤル物

 夜討(やうち)強盗謀綸旨

 召人早馬虚騒動

 生頸(なまくび)還俗(げんぞく)自由出家

 俄大名(にわかだいみょう)迷者

 安堵恩賞虚戦

 本領ハナルル訴訟人

 文書入レタル細カズラ

 追従讒人禅律僧

 下克上スル成出者

これは鎌倉幕府を倒すのに奔走した武士の集団は所領安堵が幕府滅亡後にどのようになされるのかが明確ではなく、所領の奪い合いが至る所で繰り広げられ、更にはにわか大名や武士が自分も安堵にあずかろうを続々と上洛してきた。その様子を「京童」(きょうわらべ・きょうわらんべ・きょうわらわ)が皮肉って落書きしたもの。

 江戸時代の泰平の世になると天皇の存在は世間から失せて、かわりに幕閣の高官らが対象となった。

   死んでも人のおしまぬもの 鼠取らぬ猫と井上河内守(いのうえかわちのかみ)

   毒にも薬にもならぬもの さゆ(白湯)と戸田山城守(とだやましろのかみ)

   古くても張合いでもったもの 永代橋と中山出雲守(なかやまいずものかみ)

   無理で人をこまらせるもの 生酔いと水野和泉守(みずのいずみのかみ)

   わるいもの 水野和泉守と懐中おはぐろ

   人をはめるもの 落し穴と稲生次郎左衛門(いのうじろうざえもん)

 稲生氏は町奉行。いわゆる酷吏で、大岡越前と競い、次々とゆきすぎた処断をした。

 これらは現代でも使える落書で、政治家の名前を随意に入れられる。なかなか辛辣なもので、江戸時代は暗黒だなどと言う人がいるが、老中や若年寄、町奉行らの実名入りでこうした皮肉、いやみをこめた批判が堂々となされた。庶民にとって老中らは雲の上の人で、もちろん顔も名前も知らない。性格や言動を直接知る者(たち)がこれを書いた。一説には御坊主衆といわれている。いわゆる茶坊主で、この人たちは老中や大名の部屋にも出入りできるから、互いに担当の高官の様子や大名・旗本らの評判を聞き合い、集め合うことができる。幕府としては由々しきことだが、なにしろ当たっているだけにとうとう誰ひとり捕まることもなかった。本当のことだからです。武士といえば町人、庶民を抑圧してばかりと思いがちだが、「庶民は野卑な者たちだから、何を好もうが、何をしようが、高尚な我等武家には関係ない」という態度をとった。そのくせ、隠れるようにして芝居や見世物に行ったり、笑い本(春本)を密かに買い漁ったりした。なんと泰平な世ではないか。

  ついでに、現政権にぴったりなものを二つ紹介しておきましょう。

   上よりはすなおになれとふる砂に 我等ごときは泥坊になる

   上の御すきなもの 御鷹野と下の難儀

 「上よりは」は宝永5年の富士山の噴火と江戸市中の様子をうたったもの。表面上は大噴火により大量の灰が降り積もり、江戸は雨により泥まみれになった被害を伝えている。しかし、これは政治風刺になっており、お上はなにかというと説教を垂れ、よい人になれと仁だの義だの孝だの忠だのと徳を押し付けるが、言われれば言われるほど反発したくなり、我らは逆に泥棒=悪人になってしまうのだよ、ということ。

 「上の御すきなもの」これは物尽くしの一つで、お上が好きなのは、鷹狩と民の困窮する姿、ということ。鷹狩は家康から4代家綱までが盛んにやり、学者肌で身体がとても小さかった5代綱吉はインドア派で、学問の講義と猿楽を催し、鷹狩はしなかった。以降の将軍も8代吉宗のように頑強な人は復活させて楽しんだが、あとは幼少のまま急死したり、身体障がい者だったり外に出るのが好きでなかったりして、幕末には世の中が混沌として鷹狩どころではなくなったことと併せて、あとの御代はあまり開かれなかった。それはともかく、上の裕福な人は娯楽に興じ、しかもそれにより民が困窮していても意に介さず、むしろそういう姿を楽しんでいるように見える、という痛烈な批判です。今でいうなら、自身はゴルフにばかり興じ、民生はあらゆる社会福祉を改悪して平然としている姿そのもの。


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