政談205
【荻生徂徠『政談』】205
(承前) 総じて現在の公務は職掌が繁多である。寺社奉行は裁判をすれば訴訟も受付け、本来の職務たる法事も司るが、奉行の同役が何人もいながら月番を一人立て、すべて月番が抱え込むために、落ち着いて心をこめた仕事ができない。寺社奉行に限らず、どの役人もみずから詳細な指示を出すことができず、下の者に詳細を書き出せというのが癖のようになっている。右に紹介した増上寺に対して寺社奉行が御遠忌法要についての詳細を記して差し出すように命じた一件もこのような理由からである。しかし、これはほんの小事である。日光御社参・御上洛といったことがあれば、誰も詳細を知る人はないだろう。
[語釈]●日光御社参 将軍が日光東照宮に参詣すること。平素は代参を立てているが、4代家綱までは将軍自身が参詣した。その行列は数万人規模にも及び、江戸を出る時はゆっくりと畏まって歩くため、朝に先頭が出発し、最後尾が江戸を出たのは実に夕方になってからということである。 ●御上洛 将軍みずから京都(朝廷)へ出向くこと。3代家光を最後に本書執筆の8代吉宗の世まで絶えており、復活するのは幕末の激動期、14代家茂になってから。これは儀式としてのんびりと復活したというものではなく、幕府が長州と戦う事態となったために三度も上洛する羽目になったもので、大坂城で亡くなってしまった。泰平の世であれば将軍の上洛行列は日光社参の比ではなく、その数倍になったはず。事実、皇女和宮が京から江戸へ輿入れした時でさえ、道中は最大で3万人、先頭から殿(しんがり)まで50キロの長さになったという。この旅は中山道(木曽街道)を通ったため、山道続きで大変だった。将軍自身の上洛となればどれほどのものになるか。しかし、3代以降絶えていた上洛が実現した時はもはや動乱の時代。泰平の世にきらびやかな行列を組んで各地で権勢を誇示する状態ではなかった。京に上ることを上京と言わず上洛と言ったのは、中国の首都となった都市の一つ洛陽に京都をなぞらえたことによる。今なら東京をワシントンと言うようなもので考えられないことだが、昔の人たちの中国に対する憧れはそれほど強かった。
0コメント