1940年5月6日

1940年5月6日 昭和15年

【内 閣】

総理 米内光政/外務 有田八郎/内務 児玉秀雄/大蔵 桜内幸雄/陸軍 畑俊六/海軍 吉田善吾/司法 木村尚達/文部 松浦鎮次郎/農林 島田俊雄/商工 藤原銀次郎/逓信 勝正憲/鉄道 松野鶴平/拓務 小磯国昭/厚生 吉田茂/内閣書記官長 石渡荘太郎/法制局長官 広瀬久忠

【元 老】

西園寺公望

【宮中主要官】

内大臣 湯浅倉平/宮内大臣 牧野伸顕/枢密院議長 近衛文麿/枢密院副議長 原嘉道

【軍部高官】

[陸 軍]

陸軍次官 阿南惟幾/軍務局長 武藤章/参謀総長 杉山元/参謀次長 沢田茂/教育総監 山田乙三

[海 軍]

海軍次官 豊田貞次郎/軍令部総長 伏見宮博恭

【植民地高官】

朝鮮総督 南次郎/台湾総督 小林躋造/関東長官 梅津美治郎/樺太庁長官 棟居俊一/南洋庁長官 近藤駿介

【東京】

府知事 岡田周造/市長代理 大久保留次郎


日本銀行、朝鮮銀行に、朝鮮における日本銀行保有国債の売りさばきを委託。

文芸銃後運動第1回講演会開催(-1941.12 浜松)。菊池寛ら。

文芸銃後運動は1940年菊池寛の発案によって設立された、文学者が翼賛運動を行う組織。全国各地で講演会を開いた。この発想が、文芸家協会などを包摂した新組織(のちの文学報国会)へとつながった。

文芸銃後運動

――各地講演旅行の目標――

岸田國士  

 文芸家協会の主唱にかゝる文芸銃後運動はその第一着手として、去る五月七日より十三日まで、東海道近畿の大都市八ヶ所において講演会を催し、引続き毎月これを全国各地方に及ぼす計画である。

実際のプラン及び諸般の準備はそれ/″\適当な機関に委せてあるので、われ/\はたゞ動員に応じ、からだを運べばいゝわけであるが、今度の講演旅行の径路に徴して、やはり運動の目標だけははつきりさせておいた方がいゝと思つた。

 一行は久米、横光、中野(実)、林(芙美子)の諸氏と私、別に、岐阜と名古屋とでは私の代りに吉川氏が加はり、京都からは菊池氏が参加した。

 各地とも講演会は空前といはれるほどの盛況であつた。われわれはみないひたいことをもつてゐる。それは恐らく、国民の多数が――少くとも知識層の大部が――考へてゐてどうにもならぬことなのだらうと思ふ。われわれはさういふ人々に、なにも教へる必要はない。たゞ、各地の講演会場の空気で感じられたことは、聴衆がわれわれの意図をよく汲み取り、さういふことが誰かによつていはれねばならぬといふ賛同の意を強く示してくれたことである。

 かういふ感応は、今度の講演を通じて、われわれに力と覇気とを与へた。誰がなんと見ようとも、国民は今、真剣にものを考へてゐるのである。

 国家の難局に際してわれ/\は現在どうあらねばならぬかといふ問題ほど痛切に一般民衆の注意を惹くものはない。文学者が果してこの問題にすぐれた解答を与へ得るかどうかは別として、私の信念は、たゞこの種の問題の核心がどこにあるかといふことを、文学者が最も奥深く指摘し得るといふことである。

 なぜなら、文学者こそは最も近く民衆の心に触れ、その日常生活を観察し、その苦悩と希望とに絶えず眼を注ぎ、現実の可能性とその限界とをよく知つてゐるからである。

 為政者と声を合せて国民に様々に警告を発するのがわれ/\文学者の任務ではない。寧ろかゝる警告を受けねばならぬ国民の立場に立つて、自らを批判し、一切の警告を無用たらしめる方法を探究し、進んで、国民全体のぎり/\結着の力を出しきる生活と秩序とを自分自身の手で作り上げる正しい方向を発見することが、今日の文学者に課せられた一面の仕事であると思ふ。

 この運動に参加する文学者たちのそれぞれ聴衆に愬へようとする課題はまちまちであらうけれども、単なる個人的意見を通じて、一人の人間の特異な所在を知らしめることはさほど重要ではないと思ふ。

 国民は今、祖国の直面する運命をひたすら凝視し、自己のおかれた場所に応じて、十分の義務を果し、且つ、その義務に反せざる限り、安全に身を護らうとしてゐるのである。この心理は自然である。それゆゑ、義務がこれを命ずれば献身もいと易いといふのが、われわれ日本人の常態である。

 しかしながら、義務を義務と感ぜしめるものは、国民全体の高貴な精神の昂揚にあることはもちろんで、この点、わが国の為政者は、もつと時代の表現を身につけた一種の詩人であつてもらひたいと私はかねがね思つてゐるのである。

 文学者は幸ひにして、時代の言葉をもつて自己の信念と理想とを語る術を心得てゐる。国民はその言葉を、自分みづからの言葉として聴くであらう。そこには自己陶酔による徒らな鼓舞や激励や叱咤はない代り、政府の代弁者たちのもたぬ反省もあり、自責もあり、苦さにみちた述懐がある。しかもそれはもはや決して、消極的傍観的な態度ではあり得ないところに、今度のわれわれの行動の出発があるのであつて、黙々として国民の歩む道が、所詮平坦でないにしても、すべての努力を傾けることによつて、やがては光明に達するであらうことを互に固く信じ合はうとする祈念の衷はれなのである。

 われわれ一行のスケヂユールは文字通り強行軍であつたが、私が病後のからだを多少労はつた以外、他の諸氏はよく頑張つた。そして、いづれも、こんないゝ聴衆はいままでにないといつて褒め、かつ、悦んでゐる。なにかしら手応へがあつた証拠である。

 私はこの運動の意義と効果について、一層これを徹底させる上から、是非、講演の反響を知り、聴衆諸君の自発的協力を望みたいと思ふ。

 次回のプログラムは、さういふ目的が達せられるやう、若干の考慮を払はれんことを計画者側に希望する。(「東京日日新聞」1940(昭和15)年5月22、23日)

過去の出来事

過去の本日の朝廷や江戸幕府の人事一覧、その他の出来事を紹介します。ほかに昔に関する雑記など。