政談203

【荻生徂徠『政談』】203

(承前) 礼儀作法について、凶礼はめでたくないものだけに誰一人検討する者がない。綱吉公御他界の節、治世30年に及んだために先代の家綱公御他界の時の様子を覚えている者はなく、ましてや儀式の詳細を知る者などなくて、いろいろ苦労したと松平美濃守(吉保)殿が語られていた。このようなことも、礼儀を専門とした役を定め、つねにその事に従事させたならかような苦労もすることはない。


[解説]忠臣蔵では柳沢吉保が将軍綱吉をそそのかせて浅野内匠頭を即日切腹させ、吉保の推挙により将軍への対面が許され、政治に関して意見が述べられる立場となった徂徠が討ち入りを果たした赤穂浪士たちに切腹するのが妥当といった考えを言上、これが採用されたことになっており、吉保と徂徠は悪役側に置かれている。が、そもそも忠臣蔵の発端は江戸城中での最大の年中行事である勅使・院使饗応の際に浅野が吉良に対して場所柄も弁えず刃傷に及んだもので、その理由はいろいろ言われているが、浅野家が儀式について指南役たる高家筆頭の吉良から満足に説明されないばかりか、いろいろな嫌がらせをしたためとされている。しかし、この行事は毎年行われており、式次第から行儀作法まで決まったものであること、浅野家はすでに一度経験しており、その時の記録も後日のためにと残してあることから、まったく何も知らず、いちいち吉良から教えてもらい、それを鵜呑みにすることはまずあり得ない。そこで、吉良が良質の塩の製法を教えてもらおうと頼んだのに浅野がけんもほろろに拒否したとか、浅野が当然の謝礼として吉良に贈る金品をケチったとか、浅野侯が連日の重圧によるストレスでパニック障害を起こしていたとか、いろいろ言われている。真相はいまだ不明だが、毎年行われている行事であれば担当者も経験者も豊富だから間違いも起こりにくいが、将軍の葬儀といったものは不定期で、天皇のように退位・譲位がなく、終身現役。そのため、在位期間が長くなると先代の葬儀の記憶が薄れ、記録も満足に残していいとなれば、それこそ一からやる状態となる。儀式を乱したとして浅野の厳罰に与した吉保も、将軍の葬儀がわからず難儀しというのだから、浅野や浪士たちが聞いたらどんな気がするか。こういったことから、徂徠はいつになるかわからないものの、確実にその日が訪れ、必要となる行事担当の役人を常設しておくことを説く。無駄なようにも思えるが、誰も知らない状態のほうが余計な出費をするもの。きちんと決めておけば費用もその範囲で収まり、困窮することもないわけである。


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