政談194

【荻生徂徠『政談』】194

(承前) 家宣公の御代に荒井筑後守(あらいちくごのかみ)殿が朝鮮使者への待遇を憤ったことで御三家による相伴を取り止めにしたが、三位という名目があるため、今度は朝鮮側から規則に違うと抗議があった。これもすべて制度を確立していないために生じるのである。武家の側で勲階を中心とし、勲三等の人を三使の相伴役にすれば、中国の明(ミン)・清(シン)両朝においても勲一等を一位と同格にしていることから、朝鮮も納得し、抗議することもなくなる。とかく何事も公家と武家は別というけじめをしっかりとつけておきたいものである。


[語釈]●荒井筑後守 新井白石(明暦3年2月10日(1657年3月24日)~享保10年5月19日(1725年6月29日))のこと。江戸時代は人名や地名の表記でも発音が同じ別の漢字を使うことがよくあり、誤字・誤記ではない。東海道の新井の宿も荒井と表記しているものもあるなど。白石は旗本、つまりれっきとした武士で、政治家・朱子学者。本書の著者の徂徠とは身分が隔絶している。但し、それぞれ別の将軍に重用された点は共通しており、ライバル関係にあった。白石は無役の旗本でありながら六代将軍家宣の侍講として御側御用人の間部詮房(まなべあきふさ=大名)とともに幕政を主導、正徳の治と呼ばれる一時代をもたらした。家宣の死後も幼君の七代家継を間部とともに守り立てたが、政権の蚊帳の外におかれた譜代大名と次第に軋轢を生じ、家継が夭折し八代将軍に徳川吉宗が就くと失脚し引退、晩年は著述活動に勤しんだ。松平(柳沢)吉保の推挙により五代将軍綱吉に重用された徂徠は六代家宣以降は私塾を開いて学問に励んだが、八代吉宗が就任すると再び招かれて幕政に関して諮問される立場となった。徂徠も白石も将軍の重臣によって推挙され、重臣の失脚とともに幕政から離れたといった経歴が共通している。徂徠の学問は朱子学、歴史学、地理学、言語学、文学と多岐に亘り、さらに詩人で多くの漢詩が伝わる点も同じ。弟子は徂徠のほうが恵まれ、これはどんな性格の者も弟子として受け入れた懐の深さにも起因している。「唐詩選」がベストセラーになったのも徂徠の高弟である服部南郭(はっとりなんかく)が大いに称揚し(もともとは徂徠が評価していた)、現代まで入門書として教材にも使われているほど我が国の教育、文化に影響を及ぼしている。なお、白石は号で、諱(いみな)は君美(きみよし、有職読みで きんみ)。


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