政談193

【荻生徂徠『政談』】193

(承前) また、朝鮮からの使者来聘の時に、御三家を三使の相伴とされたのは、三使はいずれも位階が三位(さんみ)で御三家の位階と同等であることから、これは昔そのように定めたのだろう。思うに、これは京の五山の僧か、林大学頭(だいがくのかみ)あたりの考えか。しかし、これはとても事情に暗くして文盲である。なぜかというと、朝鮮からの使者は朝廷とは関係がなく、武家が相手をする。されば、公儀と朝鮮王を同格として儀式を定めるべきなのに、朝鮮と日本との往来について、日本からは使者を出さず、朝鮮から一方的に使者を寄こさせ、日本に対してへりくだる仕組みにしている。公儀を朝鮮王と同格とした場合、御三家は皇帝の一族あるいは親王に該当し、一族や親王は一位より上であるのに、下である御三家を相伴に出すことは、はなはだ非礼である。もし、朝鮮より朝廷へ使者を派遣した場合は、こちらから三位の人を三使の相伴に出すのは相応で問題ないが、日本の古法としては朝鮮王を天皇と同格とせず、天皇は皇帝、朝鮮王はその下の王位としている。されば、朝鮮は日本に対して臣下の礼をとることから、朝鮮王を家来として扱い、その使者を陪臣としているが、これでは全く釣り合いがとれない。今、朝廷の官位を固く守り、三位同士を同格とすれば、朝鮮王と天皇と同格となり、公儀の格は一つ下がることになる。何事も国体を失うやり方は甚だよろしくない。


[語釈]●三使 正使、副使、従事官。 ●五山 臨済宗(禅寺)の五つの本山。山は寺のこと。京都、鎌倉にそれぞれ五つの本山がある。京都は天竜寺・建仁寺・相国寺・東福寺・万寿寺。鎌倉は建長寺・円覚寺・寿福寺・浄智寺・浄妙寺。なお、これらの上位として南禅寺がある。五山の僧らは学問や詩文に励み(つまりインテリ)、鎌倉時代には学問、文化の中心的存在にまでなった。 ●林大学頭 ここでは林羅山(はやしらざん。法名は道春(どうしゅん))を指す。林家(りんけ)は幕府の御用学者を務め、代々儒官となった。羅山が家康に招かれて林家の祖となったが、羅山の時はまだ大学頭という身分はなく、次の代から。大学頭は今の文部科学大臣および東大学長を兼ねたほどの権勢があった。しかし、今と違い、儒官だから学問を志す若者や、いい所へ就職させたいと願う親たちが林家のもとに弟子入り(生徒となる)を願って集まるといったことはなく、むしろ何の地位も身分もない、市井の学者のもとに集まり、実数ではないが「弟子三千人」といった盛況ぶりの学者や私塾がいくつもあった。当時は学歴というものはなく、林家に学問を教わったからといって、それで官僚として出世したり大名に仕官できるということはなかった。あくまで学問をしたい者が、好きな学者・師匠の門を叩いて弟子入りしたり講義を聞いたりした。昔の人の学問の意識や水準の高さに驚かされるが、すべて自分のために難しいことをいとわず、短い人生であるがゆえに寸暇を惜しんで学んだから、すべてが血肉となった。漢字ばかりの漢文を難しい、こんなの無意味だ、などと毛嫌いする現代人だが、なぜ昔の人たちはこれをスラスラ読めて、現代人は読めないのか。昔は今のような立派な辞書もなければ訳本もない。学習塾のように教えてくれるところもない。それでも読めたのは、意識と気概、自分のためにという思いのしからしむるところ。これはどの分野も同じ。幕末には英語が達者な人が次々と現れたが、これも満足な本もなければ教えてくれる人もない。英語の辞書はものすごく高価で、藩主に頼んで藩の蔵書として買ってもらい、それを若い藩士や好学の庶民らが筆写したというすごい努力をしている。読み書きができるようになると、外国人と会話がしてみたくなる。来日した御雇外国人や使節の随員らに物おじせず会話を挑んだり、それに飽き足らず米欧へ行く。最初は全然通じないが、それで自信を喪失することなく、どこまでも身振り手振りを交えて会話する。家に住まわせてもらい、働き口を見つけてきつい仕事でも何でもやりながら日常会話を覚える。学問や技芸はこのように自分からやりたいという気持ちがなければ、馬を水飲み場まで連れてゆくことはできても水を飲ますことはできないいうのと同じ。昔の人のすごさはここにあるのです。


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