政談180

【荻生徂徠『政談』】180

(承前) 烏帽子・直垂(ひたたれ)といったものはもともと公家の礼装ではない。昔の武家の作法である。よって今の格式に合うように階級をつける分には問題ない。烏帽子・直垂を着た姿をのろいとかおっとりしているとけなす人が多い。これは白衣の姿を見慣れたからそう感じるのである。また、今の禰宜(ねぎ)や鹿島の事触れの類の装束を見慣れているからでもある。しかし絵に描かれたものを見ると、上下(かみしも)姿はとても見られたものではない。これは正直な気持ちと理解すべきであろう。また武用としては向いていないと言う人があるが、源平の時分、『太平記』の時分にはみな必ず烏帽子・直垂姿で戦(いくさ)をしている。更に烏帽子は気づまりで一日も着られぬと言う人がいる。これも習慣で、月額(さかやき)を隔日に剃る人が剃るのを一日延ばせば気分が悪くなる。しかし、山伏や根来(ねごろ)組は総髪だが何の問題もない。自分が慣れたことをひいきにするのが人情というものである。倹約の仕方、人の困窮を救う方法は、烏帽子・直垂姿にして、供廻りの数を減らす以外にはない。


[語釈]●禰宜 神主に次ぐ神官。 ●鹿島の事触れ 巻一に既出。正月三が日に鹿島神宮の神託と称して、神職の姿をしてその年の吉凶などを触れ歩く者。 ●月額 月代とも。男子の額(ひたい)から頭頂部を剃った部分。もともと武士が戦闘で長時間兜をかぶると頭が蒸れてのぼせることから、それを防ぐために編み出したもの。江戸時代は泰平の世で兜をかぶることは訓練や儀式など限られた場で、しかも短時間だから頭を剃る必要はないが、長年の習慣で当たり前の髪形となった。庶民は兜などかぶらないから剃る必要はないが、武士の真似をして一般的となった。別にお上が強制したものではない。武士でも総髪の者はいたが、公職にある者ほど身なり身だしなみを整えるのは今と変わりがなく、月代も二日に一回は剃ったし、ヒゲも江戸時代の絵を見ればわかるように、初期を除いてはほとんど見られない。泰平の世は関心が自分の容姿に向き、人目を気にし、人が気になるもので、江戸時代の人は総じて綺麗好きだった。ヒマさえあれば歯を磨く人も少なくなく、それだけ口臭を気にしていた。全く気にせず、風呂にも入らない人もいたが、当然、嫌われた。江戸っ子に至っては朝と夕方に二度風呂に入るのが当たり前。ちなみに、夕方も仕事をするのは武士の高官ぐらいで、庶民はさっさとやめて自分たちの時間を楽しんだ。いつまでも仕事をしていると親方(経営者)が怒ったし、仕事をさせる親方は世間からののしられた。但し、大きな商家だけは今のブラックと同じ。仕事に追われ、仕事をしない者は悪だといった社会通念は明治になって植え付けられたもの。


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