政談174
【荻生徂徠『政談』】174
(承前) 借貸の裁きが大変というのは、立派に裁いた場合、武家の大身・小身でさえも身上が潰れることになるからである。年数を経た借金は利子がかさみ、手が付けられぬことになるために裁く時にはみな潰れてしまう。そこで、中国では昔からこのよう場合には更始(こうし)という制度がある。「あらためはじむる」と読み、過去の事は破棄して今日を始めとし、今日以降を正しく裁くのである。日本で世俗において徳政と言い慣わしているのがこれである。長らくかさんで埒が明かぬものについては、これを適用しなければ他に手はない。借金がかさんで長く返せないものは、大方は貸した者が損をすることになる。また、十年以上経過した借貸は取り上げないといった徳政に似たこともなされたが、決してこれは徳政ではない。もし、徳政を実施しても、以後の借貸の法を確立させなければ、十年二十年経つうちに徳政が行われるのではないかという疑いの気持ちから貸す側がためらうようになり、結果、金銀の通用がますます滞ってしまう。このために借貸の訴訟は近年は話し合いとしたことで庶民が難儀をしていることから、今後は貸借の訴訟を正しく裁くためにも、過去の貸借は徳政として処理するのがよろしかろう。
[語釈]●徳政 元来は字のごとく、有徳の政治、仁徳ある政(まつりごと)、つまり立派な政治ということだが、日本では債権・債務破棄の意味で使われた。借金が帳消しになるのだから、金を借りている側にとってはこんなありがたいことはなく、お上の態度が徳のある偉い人に思えるから徳政というわけである。鎌倉時代の永仁5(1297)年に初めて行われ、室町時代に盛んに発布されたが、江戸時代には消滅した。徂徠は世間の困窮ぶりを打開するには、奉行所で訴訟をきちんと受理して裁くこと、長期にわたりかさんだ借金の貸借については「更始」の制度を適用すべきことを説く。借金の帳消しは金貸しの側は不利で、逆に徳政を期待する側はわざと返済を滞らせて時間稼ぎをすることがあるため、そこはそういったことを防ぐ法律も必要であることは当然。
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