政談170
【荻生徂徠『政談』】170
(承前) 銭を多く鋳造しようとすれば、長崎から異国へ銅を渡していることでもあり、銅が払底してしまうといったこともあるだろう。そもそも銅が払底するには理由がある。この三、四十年来、城下はもちろん、田舎の隅々まで、小さな寺院でも鐘を鋳造しない所はないほどである。六十余州を調べれば莫大な銅の量となるだろう。小さい仏像の数もおびただしくなっている。仏像もあまりに多いと、却って信仰心は薄くなるから、仏法のためにもよくない。ことに鐘の功徳というのは、人の眠りを覚まし、読経の時刻を教え、十二時の時の移りを知らせて無常というものを分からせる方法とし、また、大寺院では峰々谷々の衆僧を呼び集めるために鐘を撞く。ところが、鐘楼(しゅろう)もなく、小寺院で鐘を撞く人さえいないのに、檀那から布施を集めて鐘を作り、軒下に吊るしておくのは、いったい何のためであるか。撞かぬ鐘に声なし。声なくて功徳があるはずはない。誠に無用のものである。これらの鐘の類その他世間にある無用の銅器を鋳潰して銭を作ればたくさん製造できるし、これによって世間の困窮を救えば、仏の慈悲心にもかなうことだろう。但し、俗人が寺々の鐘を取り上げたなら、愚かな人々の人情に逆らうことになるから、智徳ある高僧に相談して、人々を教化し、その上で由緒ある寺で鐘楼があって鐘を撞く習慣のある所だけ残し、その他の小寺院の鐘を悉く銭にし、その銭をその寺へ下げ渡して寺の修理に使わせたいものである。
[解説]当時、国交・通商関係のあったオランダと中国へ毎年それぞれ600トンと1800トンの銅を長崎で渡していた。このために銭を鋳造しようにも銅が払底した状態となり、徂徠は無住の小寺まで鐘があるのは無意味であるばかりか、信仰上有難味も薄くなるから、鐘以外の不要なものも含めて全国から銅を集め、それで銅銭を鋳造するのがよいと説く。一石二鳥ということ。無住の寺とはいえ、それぞれ檀家があり、檀那たちで布施を集めて鐘を作らせた経緯もあることから、まず鐘の意味を教え、撞く者もなくただ吊り下げているのでは鐘の意味もなくなることを分からせて、時刻などを知らせる意味で毎日鐘を撞いている寺院をのぞき、遊んでいる鐘を銭に改鋳し、その銭で寺の修理などに充てるのがよいとする。名目はなんであれ、銭にすればそれが流通するようになるということ。
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