政談168
【荻生徂徠『政談』】168
(承前) 銭の価値について。慶長の頃は一両が四貫文であったと承知している。銭が諸国へ行き渡って不足してきたため、松平伊豆守殿が大仏を鋳潰して銭を鋳造してから銭の数が増え、三、四十年前には一両が五貫文もしていた。元禄の頃には再び四貫文となり、正徳の末には一分が六、七百文に高騰したのは、乾金(けんきん)の改鋳があるのを知った世間が損をしないために相場を上げた商人たちのせいであり、銭の数が原因ではない。
[語釈]●松平伊豆守殿が大仏を鋳潰して 幕府き寛永13(1636)年から銭「寛永通宝」の鋳造を開始、寛文8(1668)年には豊臣氏が造立(ぞうりゅう)した京都方広寺の大仏を鋳潰して、その銅で197万貫文の「寛永通宝」を鋳造した。方広寺といえば「国家安康」の鐘銘事件で有名だが、ここの大仏は奈良の大仏を上回る大きさだった。秀吉の時に最初のものが造られたものの、地震や火災で炎上、倒壊し、寛文年間のは3代目。しかし、これも地震により倒壊し、大仏も破壊したため、これを機に銭へ銅が転用された。この大仏は不運続きで、天保年間に縮小されて肩から上だけの像および大仏殿が再建されたものの、1973(昭和)48年に火災で焼失、それ以後は再建されていない。 ●一分 一両の四分の一の単位。一分の四分の一が一朱。一朱は一分とともに金・銀両方の貨幣が造られた。一朱金は金貨とはいえ金の含有は少なく(僅か12%)、摩耗や火災などですぐ銀の地金が露出し、さらに大きさがとても小さくて扱いづらく、一分金(二分もあり)は廃止されて一分銀のみとなった。
[解説]大仏を鋳潰して銭を鋳造する。これで想起されるのが、戦時中にしきりにやった金属の供出。武器を作るためと称して寺の梵鐘から子どものおもちゃに至るまで、金属製品や金属の部品などを献納させた。実際にそれらを鋳潰して武器、兵器製造に充てたが、それよりもこのような悲壮なことをさせることで、国民の心を一つにさせる意味が大きかった。日本人というのは昔からこのように追い詰め、追い込むといった精神主義が好きで(反発する一方で、浪花節的なことを喜ぶ)、理不尽な仕打ち、シゴキに耐えることで、いつの日か栄光や幸せを手に入れるのだと頑張る。しかし、その多くはそのようにさせる者の誘導に過ぎず、むしろ結果が出ることが見込めないほど精神主義が横行する。お国のために喜んでおもちゃを差し出す、家財道具を献納しない奴は非国民だ、と次第に同調圧力が増す。巧妙なのは、献納させる側は直接的には「献納しない者は非国民」とは言わないこと。これは「慰安婦」も同じで、だから「存在しない」派が勢いづくわけだが、あった・なかった論議になると、なかった派が有利になるように常に仕組まれている。同調圧力が高まらない国民性・風土であれば、当局ががなり立てて、「献納せざる者は我が国民にあらず」と明言し、押しまくるが、そういうことを言わなくても、隣近所や世間の様子を見てしぶしぶ協力する気風が続く限り、悪意のある政治家や官僚が言い逃れできる状態も続く。卑劣であり、許されないことだが、自分で自分を律し、恥を知る者が高官貴顕の世界で当然とならない限りは、国民以上に良心など持ち合わせない者たちが跋扈する。
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