佛像圖彙523
【523】難陀(なんだ)
[通釈]
難陀 兄 梵字はユ?(これも崩れている)
『翻訳名義集』に歓喜龍王という。そう名づけたのは、時に応じて雨を降らせ五穀を実らせて人々を歓喜させるからである。
[解説]
難陀(別名は難途=なんづ)、跋難陀(ばつなんだ)は、仏弟子中、悪事を働いた六群比丘の難陀竜王と跋難陀竜王の兄弟で、八大竜王に数えられる。釈迦の異母兄弟。八大龍王の一でも有る。古代印度でコブラを神格化した物が由来ともいわれる。
下は奈良長谷寺蔵、重要文化財の難陀龍王立像。舜慶作。鎌倉時代の正和5年(1316)作。
雑記。
カルト問題により信教の自由が改めて取り沙汰されています。信仰、信心、信教というように、人は何かを信じ、心の拠り所あるいは支えとして持つことで安心が得られる生き物。カルトが宗教か否かは私ごときにはとても判断できないことですが、それが擬似宗教であっても、信じる人にとっては宗教であり、周りでいくら「あの組織は宗教ではない」と忠告したり諭しても、容易に理解してくれるものではない。洗脳をする組織はもはや宗教とはいえないでしょうが、洗脳されてしまった人はなおさらのこと、信仰対象が絶対で、我々のことは悪魔、悪鬼羅刹のように思う思考回路ができあがってしまっているので、洗脳を解くのは限られた徳の高い専門家でないと覚醒させたり連れ戻すのは不可能だし、方法を誤ればますます深みに落ち込んでしまうことになります。
その「宗教」が正か邪かを簡単に見分けられる方法を、300年以上前の江戸時代の学者、貝原益軒が『大和俗訓』という書物の中で教えてくれています。以下、その部分を現代語で紹介します。
巻五 言語
世俗の語り伝えることにはうそが多い。全部を信じてはいけない。ことに怪しいことは多くは偽りである。
神仏の奇跡も、俗人の語り伝えることはうそが多い。
およそ正法(しょうぼう)には奇怪というものはない。奇怪なことがあるとするのは正法ではない。だから奇怪だから、霊験あらたかだからといって尊んではいけない。
神仏を褒めようとして、ないことを作り出し、あるいは似たことを本当だと言いくるめ、奇怪なことを騙って、却って神仏の徳を穢していることを理解しない。
魑魅魍魎、狐狸のしわざとされる奇怪なことも、多くはうそである。全部を信じてはいけない。愚かな人はいい加減なうそを鵜呑みにして迷いやすい。
世の中にはうそをまことしやかに語り伝える人がいるが、信じてはならない。また、それをみだりに他人に吹聴してはいけない。他人の虚言を信じてそれを別の人に語り伝えると、自分も虚言を弄した罪となる。決してそのようなことをしてはならない。
「幽霊の正体見たり枯れ尾花」という有名な川柳に象徴されるように、江戸時代の人たちは物の怪(もののけ)を信じた平安や鎌倉時代の人たちに比べて、はるかに近代的な認識をしています。この益軒の言葉でもわかりますが、不思議や話、恐い話は、多くは作為されたものでうそであるということがかなり周知されてきたものです。
お寺のお坊さんたちは庶民のために色々な話を法話として聞かせ、これがやがて講談になったといわれていますが、当然ながら誇張や創作が多く入ります。しかし、それも程度の問題で、地獄に堕ちるとこんな目にあうから、うそをついたり人にいやがらせをしてはいけない、というふうに現実的な結論に結び付けます。
しかし、昔も邪教はいろいろあり、「この神仏を信仰しないと祟りがある、家族や子孫にも災いが及ぶ」といって脅し、金品を要求したり無理やり入信させて奴隷のように服従させる者がいました。
江戸幕府が偉かったのは、家康が文教を奨励し、特に論語を中心とした儒学を根本の学問としたこと。論語の中に、「子は怪力乱神を語らず(孔子は、怪しげなこと、力をたのむこと、世を乱すようなこと、鬼神に関することについては語ろうとはしない)」という有名な一文があり、これを教育、ひいては政治の要諦としました。つまり、政教分離をし、さらに人を惑わせたり怖がらせるような根も葉もない妄言を徹底的に禁止しました。お寺が役場の機能ももったことから、なおさら僧侶に妄言、虚言を吐くことを禁じたわけです。
この結果、江戸時代はきわめて現実的に物事をとらえる人が多くなり、時代の進歩へと結びついたわけです。
科学の発達した文明社会の現代、「霊界」だの「霊言」だのといった書物を盛んに出す新興宗教(しかも選挙に立候補までする)があったり、いまだに「キツネ憑き」「犬神さまの祟り」などと脅して荒行をさせる自称教祖が後を絶たず、霊感商法にひっかかる人が多い状態です。文明がいくら発達しようと、人の心は常に動くから、弱くなったり迷ったりする。それをしっかりさせ、智慧を示すのが仏教ですが、分派したり破門されたりしてカルト化した組織は、ほとんどすべてがまず恐怖させ、そこから逃れるために金品を喜捨することで幸福になれると思わせる。こういうことをするのは間違いなく邪教といえるでしょう。益軒の「怪しいことは多くは偽りである」、この言葉を常に肝に銘じておきたいものです。
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