政談163
【荻生徂徠『政談』】163
(承前) 寛文の中頃より、早くも世の中は今の状況に向かい始めたと見え、伊丹播磨守殿が勘定頭(かんじょうがしら)を務められていた時、密かに親しい人にささやいたことには、「公儀の財政は収入を計り支出を考えてするものだが、もはや支出が多くなり、幕府の金を毎年一、二万両ずつ支出に充てている状態である。徳川の御代が永く続けば、後世の役人たちは難儀することだろう」と。これは父が語ったことである。幕府の金をひたすら出してしまったために、綱吉公の時、日光東照宮参詣が二度も計画されたが、金がかかることからどちらも実現されなかった。
社参が実施されないのを思い悩んだ綱吉公は役人たちに何かよい考えがないか尋ねたところ、荻原(おぎわら)近江守殿が「社参の上に更に御上洛あそばされても差し支えない愚案がござる」と答え、ただちに元禄年間に金銀貨幣の改鋳を行い、幕府の金蔵に金が満ち溢れた。元禄十六年十一月の関東の大地震により蔵の金はみな普請のために回され、やがてその金が民間に広まって流通が増えたことから、人々は更に江戸に集まり、商人はますます儲かり、一人の身、一軒の家でも金がかかる品が多くなり、竈(かまど)の数も一軒にしかなかったものが二軒に増え、二軒が四軒、五軒と増えていった。江戸城下の隅々まで家が立ち並び、田舎の奥まで商人が行くようになったのは、私が記憶している範囲でも元禄以後のことである。
[語釈]●荻原近江守 荻原重秀。1658-1713。旗本。最終的には3700石。勘定吟味役から勘定頭、勘定奉行に。今の財務官僚(次官)。幕府の財政に専権を握ったが、元禄度における貨幣の悪改鋳をしたため幕府は名目上500万両の利益を得たものの、悪貨は当然ながら信用をなくし、物価の高騰を引き起こした。新井白石ととても仲が悪く、白石の再三にわたる罷免要求に将軍が根負けして荻原を罷免。累を及ぼさず嫡男に家督を相続させたが、荻原の怒りは止まず、絶食による自殺をしたとされる。能吏ではあったものの、悪貨という禁じ手で将軍の歓心を買おうとしたことは実直で堅物の白石には到底許せるものではなかった。白石は従来の米本位主義なのに対し、荻原は金本位。対立するのも当然。しかも、荻原は金の含有量を大幅に減らした小判を「再発行」したのだから、経済通とはいえ知識を悪用するのは官吏としては不適格とされるのも当然。
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