政談162
【荻生徂徠『政談』】162
(承前) 昔は年貢を強く納めさせたが、それでも百姓は潰れなかった。今は総体年貢が安くなり、安い状態が続いているために少し高くなるとすぐに身上が潰れてしまうものの、百姓の暮らしも変わり、裕福な状態が続いている。裕福になると武士の真似をして、百姓の一分(いちぶ)などと見栄を張っている。こういったことも制度がない世の中で、金さえあればどんなことでもできるということから、世間の風潮が次第に変化した結果である。このような状態のため、貨幣が充分行き渡らず、物価が高くなるのである。
[解説]最後の部分は、金銭が次第に万能となり、貨幣が多く必要となっているのに充分に流通できず、貨幣不足のために物価が高騰していることを指す。
年貢は検地をして納める量を決めるが、一度決めると、それを何年も踏襲する。新田開発をすると、検地を受けて量を決めて許可される(新田開発をした場合、数年間年貢が免除される)。このため、次第に生産力が向上して収穫高が増しても納める量は同じなので、農民の取り分が増える。この結果、農民の暮らしが少し豊かになる。徂徠はこの事情については暗かったらしく、この一段は金銭と結び付けて「年貢が安くなった」などと述べているが、意味がおかしくなっている(直訳すると文意が通じないほど)。もちろん、農民が豊かになったといっても知れたものだし、大凶作に見舞われると長くその影響を引きずり、ツブレ百姓(倒産と同じで、本百姓=自作農が小作人や下人に零落すること。一家離散、娘などの人身売買、一家心中も)となるケースも多かったから、取り分が増えたり豊作でもそう喜ぶことはできないが。
一般に、藩の農民は監督する役人、お上も同じ地元だったから、厳しい藩ほど苦労させられたが、幕府の直轄地=天領の場合は万事緩やかだったため、比較的農民の暮らしは楽だった。東京都下の三多摩地区(新選組幹部の出身地)は多くが天領で、一部は藩が委託の形で治めた地区もあるが、総じて自由な気風にあふれていた。これが明治維新後も「五日市憲法」に代表されるように自主独立、自由民権運動の精神として受け継がれた。今までが自由だっただけに、圧制に対して殊の外敏感だったわけです。
0コメント