政談161
【荻生徂徠『政談』】161
(承前) この三、四十年前には、同心の住居で畳を敷いた家はなかった。上下(かみしも)を着用することもなかった。今は畳を敷き、唐紙を建て、収入がよいので与力とさほど変わりがない。上下を着て出る姿などは高給取りのようである。家康公が関東に入られた頃は、武家の若党は袴を着用することがなかった。絹以上の上等な衣服も着なかった。今も尾張では昔の姿が残っており、家中の若党は木綿や麻の着物に大小を差している。これは、もともと旗本は直参であるために大名と変わらない。旗本の家来は切米取(きりまいとり)だが、諸大名の家来と同格であるということから、今は家中の若党まで贅沢になった。
[語釈]●若党 武士の従者のうち最も上の身分の者。従者は若党・中間・小者(こもの)の三つがある。但し、これは厳密に決められたものではなく、時代や地域、藩によって違いがあり、若党=中間とする所がけっこうある。若党の上が足軽で、足軽もまた武士ではないが、いわばみなし公務員として、事務や警備などの雑務をしたり、若党らを監督した。衣服や出入りできる場所が厳しく制限されていた。赤穂浪士のうち、寺坂吉右衛門が足軽で、そのため「士分ではない」ことから同志たちの会議にも参加させてもらえず、直接の主人であった吉田忠左衛門につき従い、まめまめしく働いた。この寺坂だけは討ち入りに参加しながらも途中で姿を消し、幕府から捕縛されたり罪に問われることもなく80歳余りの長命で天寿を全うした。これについては無数の説があり、寺坂は武士ではない足軽の身だから大石や吉田ら幹部たちが逃してやった、ということを基本として、残された家族や関係者に討ち入りまでの様子を伝えるように命じた、とする説から、吉良邸の門前までは来たものの、そこで離脱したとする説から、邸内に入り、最後まで戦ったが、その直後に逃してやったとする説までいろいろある。いずれも共通するのは、寺坂は士分に列せられていない足軽、責任が軽い身だから大石らの配慮であれ、自分から逃げ出したのであれ、どうでもいい立場だ、というもの。昔の人の認識はそういうものだった。 ●切米取 将軍や藩主に仕える正式な武士はそれぞれ知行取(ちぎょうとり)といって知行所を分け与えられ、そこから納められる年貢を俸禄としたのに対し、知行取の家来は米や金銭などを俸禄として頂く。これを切米取といい、知行取より格が下がる。武士は大名だと「加賀前田百万石」とか「肥後細川五十四万石」「播州浅野五万三千石」といったように知行の石高もセットで紹介されるように、家臣もまた「城代(家老)千五百石」とか「番頭(ばんがしら)三百石」といったように、貰っている知行(年貢高)も常に公表、明記された。この石高は年俸である。これを今に当てはめると「某国務大臣〇千〇百〇十万円」「某部長〇千〇百〇十万円」といったように常に表記する。こうすると、それだけもらっているのだからちゃんと仕事しろ、となるわけで、この点でも昔のほうが情報(資産)公開が進んでおり、感心する。で、切米取だと「三十俵二人扶持」(さんじっぴょうににんぶち)「七両二人扶持」(しちりょうににんぶち)といったように、給金の額で示された。前者の場合、従者一人の1年の生活費が米5俵とし、2人いるから2人分で計30俵ということ。扶持とはもともと助ける、扶助という意味で、主人から権利として頂くもの。家臣はそれに応じて決められた職責を果たすということ。つまり反対給付、双務契約です。身分がうんと低い者は米の現物支給では換金が大変なので、現金を頂いた。
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