政談152

【荻生徂徠『政談』】152

(承前) これだけではない。田舎の者も江戸の城下の真似をして、なんでも金次第になっている。今は何事も江戸の町人に負けない・劣らないと贅沢をしているほど。武家の数と町人・百姓の数を比較してみると、町人・百姓の人数は武家の百倍にもなろう。これだけの人数がありながら確たる制度がないために、何事も金次第で上等な物を使うような事になってしまった。ただ、これだけならまだ物価はさほど上昇しない。問題は、品物を作る職人たちが次第に増え、町人・百姓と武家との比率ほどではないにしても、天地より生ずる物には限りがあり、使う人が多くなったために物価が高くなったのである。このような風潮が田舎に広まったのは短時間の事ではない。長い年月の間に次第に広まった結果で、四、五十年以前と今とでは十倍以上も上がってしまった。平人はさておき、乞食の輩も今は江戸も田舎も平人と違いがなくなったのは、なんと奇怪なことではないか。使う人が多いために物価が高くなった事については、制度を確立し、町人・百姓の衣食住について細かく規定すれば、物価の大半も下がることだろう。


[解説]この当時には田舎(地方)の人たちが江戸に対してコンプレックスをいだき、江戸に負けないぞといった対抗心を既に持っていたようで、これは大都会への憧れの裏返しでもあり、現代に至るまでなんだかんだ言われながらも一極集中が続く日本人の思考と都市の在り方を改めて考えさせられます。省庁の地方分散も結局掛け声だけに終わり、アリバイ作り的にほんの一部が移転しただけ。地方分権も叫ばれて久しいものの、強大な権力を志向する現政権は地方を弄び、従順な自治体は手厚く保護する一方、民主的に選ばれた首長が政権の意向とは違う政策を行おうとすればあからさまな締め付けをする。間近で見ている官僚たちが委縮するのも当然でしょう。

 江戸(東京)を意識し、負けまい・劣るまいと発奮するのはその地方が活性化し、自立にもつながるのでよいことなのに、実際には中央の真似をする。某地域政党が掲げる「都構想」なるものも、一見、その地域の自主独立と健全な行政の運営を志向しているように見えるものの、「都」をことさら強調しているように、東京の真似、焼き回しでしかなく、その地域の歴史や風土、独自性を消して、高いものでも無理して使うという、徂徠が批判したことをまたぞろ繰り返そうとしている。文明は進歩しても、人心は変わらない。政治も同じ。世の中を平定し治めるには、小手先の誤魔化しは通用しない。やるべきことは決まっている。しかし、やるべきことをしない者が政治家になることが多いために、それを防ぐための高度な制度(縛り)が必要というのが徂徠の「政談」全編を通じての主張であり、現任の政治家や首長が憲法や府市政を恣意的に変更させないようにしなければならないということです。


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