政談142
【荻生徂徠『政談』】142
(承前) とりわけ諸大名の家に留守居という者を置き、公儀や他の大名の留守居役と交わったり情報を聞き合わせることに専念させ、主人も家老も得た情報を重要なものと心得ている。しかし、その聞き合わせたことを見てみると、何の変哲もない、箸が転んだ程度のことである。こういったことはすべて諸大名が公儀の意向を重視する余り、些細なことまでも程度や調子を合わせようとする気持ちから起こったことで、留守居という役職に例の格式の何々といった名をつけ、ますます堅固に保つねらいがある。
留守居という者は、諸大名の留守居たちが組合を作ってこれを仲間と称し、酒宴遊興に主人の金を使っては「留守居が集まるのは情報交換をするためで、これも主人に対するご奉公でござる」と言う。一方では公儀を鼻にかけて主人の掟を守らず、仲間で主人から暇(いとま)を出された者でもあれば、仲間たちでその者を保護し、後任の留守居役を仲間に入れずにおく。後任は公儀や他の大名の情報が得られず、その主人が困ることになる。今はこういったことがあちこちで行われている。
[注解]●留守居 字のごとく、将軍や藩主が留守(不在)の時、城を守る重い役職。幕府の留守居は旗本の最高の職で、役料は5000石(大岡越前ら奉行でも3000石)。大名に準じる格式が特権として与えられた。諸藩の留守居は江戸藩邸に詰め、藩主が帰国している間は藩主代行的な立場として、江戸在府中には江戸城の蘇鉄の間に詰めて、幕府から示される様々な法令の入手や、幕府に提出する上書の作成を行った。とにかく落ち度があってはならないことから、各藩とも連絡を密にし、情報交換を頻繁に行った。その場として料亭や遊郭が使われたために、その時はいわば総揚げ(全室貸し切り)状態。他の武士や町人らに聞かれてはまずいからで、莫大な金を要した。これもまた幕府や諸藩の財政悪化の一因となり、それで徂徠はこの慣習に対しても批判をした次第。赤穂浅野家でも留守居がおり、情報のやり取りはしていたはずだが、元禄事件の場合は藩主が暴発した形で、さすがにこれは留守居役の想定外の事態だし、江戸家老たちが凡庸で気が利かなかったことも理由とされているが、勅使饗応は浅野家にとっては二度目で、一度目の時の記録がちゃんと残してあったというし、城中の儀式や作法、進物などは高家の指南を仰ぐまでもなくすべて決められていて、前例通りにすればよいのだから、吉良憎し、浅野侯は可哀想という感情的な評価はさておき、吉良から嫌がらせをされたかどうかも判然としないが、やはり大切な儀式の日に浅野侯が暴発したことがすべてで、この事件では留守居役の責任ではなかったとみてよいと思う。大名の留守居は江戸のほか、京、大坂、長崎にも置かれた。京は朝廷との連絡役として、大坂は堂島に蔵屋敷があることから。長崎は一部の藩だが、交易のあったオランダ、中国の使者や商人たちを出迎えたり、物資の輸送を担当する藩はその準備や管理など重い任務があるため、外交官としての留守居が必要だった。
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