政談141

【荻生徂徠『政談』】141

(承前) 内意を聞き出すために毎年決まって付け届けを贈る。その他にも一時的に頼めばそれに対する謝礼もする。火事に遭ったり吉事・凶事があれば援助の金品を贈る。さらに婚礼ともなれば是非にもと頼むため、今の御先手は専ら上の意向を密かに教えては謝礼をもらい、ご機嫌取りのために賂(まいない)を貰う役目のようになってしまっている。このために御先手は奥方へも気安く出入りをしてはあれこれ物をねだりせしめる。この他、坊主・御徒(おかち)・御徒目付(おかちめつけ)・伊賀者などに対しても、何かを頼むたびに謝礼をする。一度謝礼をすると毎年するようになり、しまいには頼むのが遅くなると坊主たちのほうから来て、何か頼み事はないかとねだりさえする。こんな場合でさえ、例の格式ということを引き合いに出しては、「それは当方の格式に合わぬ」と言ってもっと上等なものをねだる始末である。


[注解]●坊主 いわゆる茶坊主のことだが、茶坊主というのは世間での俗称で、正式にはそのような名はなく、表坊主、奥坊主、用部屋坊主、時計役坊主、太鼓役坊主など、江戸城中での雑務係として大勢いた。坊主といっても僧侶ではなく、一目でわかるように坊主頭にさせたもので、中国の宦官(かんがん)は去勢された者たちだが、それに通じるところがある。日本は中国からさまざまな制度や習慣を輸入し、咀嚼して日本独自のものに作り変えたが、刑罰の宮刑および宦官、女性の足のくるぶしから先の成長を強制的に止めて、子供の足の状態のままにさせる纏足(てんそく)、それに猛烈な試験の連続である科挙については輸入しなかった。先人たちに感謝する人も多いが、宦官は城の坊主、科挙は武士としての認定試験である素読吟味(そどくぎんみ)として、形を変え縮小して導入された。武士の子は武士だが、幕臣や藩士として家督を継いできちんと出仕するには認定試験を受けなければならず、これに落ちると、受かるまで無位無官のままだった。何度も落ちると不名誉なので、一度は落ちても(緊張して実力が出せないなど)、二度目は場慣れもして受かることが暗黙の裡に求められた。表坊主は大名や幕臣(諸役人)の接待や雑用、奥坊主は将軍の身の回りの世話、用部屋坊主は老中(つまり閣僚)らの命を受けて書類の伝達や整理を担当。 ●徒(かち) ぶだんは江戸城の玄関や廊下で待機し、将軍外出時には身辺警護をする役。 ●徒目付 徒(かち)とは全く別で、目付(監察官)の補佐をし、巡察・探偵(いわゆる隠密)・規則の調査・文書の起案など、知識と教養、体力すべてを必要としたプロフェッショナル。隠密となると、その地方の者になりきり、方言から土地の因習まで完全にマスターし、その土地の人がまったく気が付かなかったほどという。もちろん、外様領内で見つかれば殺されても文句は言えず、幕府としても「知らぬ存ぜぬ」を通した。外様としても隠密に入り込まれていたのは疑惑を持たれている証拠となるため、密かに始末して一切公表しなかった。なお、隠密は御庭番(黒鍬者。ふだんは城内の造園、清掃をする役。将軍の居室の近くまで入る特権があり、小姓も遠ざけて将軍みずから密命を伝えたり、戻った黒鍬から報告を受けた)も担当した。 ●伊賀者 伊賀・甲賀というと完全に時代劇の忍者のイメージが強いが、そもそも突然姿が消えたり大人数になったり、土の中に潜る土遁の術などといったことは不可能であることは言うまでもなく、隠密同様、敵に対して間諜(スパイ)・斥候(偵察)を行った。身のこなしが軽くないといざという時に敵の襲撃から逃れられないため、体は鍛えた。精神状態も感情的になったりすぐに動揺しては任務に耐えられないから、むしろ平常心を保つ訓練が多く行われた。伊賀者は伊賀の郷士で、家康以来幕府の下吏として任用した。大奥の用件取次という変わった仕事も職掌の一つ。

 坊主から甲賀者まで、ここに挙げられた者たちは将軍や老中らの意向を知る立場にあることから、大名たちはなんとかそれを早く知ろうとして心安い関係を結ぶべく金品を渡した。泰平の世では徒(かち)や伊賀者はヒマすぎるぐらいヒマなため、喜んで情報漏洩の手伝いをした。もちろん、機密に関することは大変な事態となるため、あくまで意向、気持ちといったもの。それでも大名たちにとっては、たとえば急に普請を命じられるよりは前もって知っておいたほうが準備もできるので、こういうことで依頼した。徂徠はこういった乱れを憂えているというよりも、きちんとした制度がないために急に大名に仕事をいいつける幕府の在り方に対して苦言を呈し、大名が困窮しないようにするといったことが念頭にあるわけです。


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