政談131

【荻生徂徠『政談』】131

(承前) 武器の類は同心の役目として製造させるべき。私の父方の祖母の先祖、尾崎常陸介(ひたちのすけ)という者が太田道灌公の家から別れて岩槻にいた時のこと、陣より帰ると同心ならびに家来たちに鎧(よろい)を直させ、刀の柄を巻き直し、鞘(さや)を塗り直し、刀・脇差・槍・長刀(なぎなた)を研ぎ、弓・鉄炮を修復させたという話を曾祖母が語っていたと父が生前に話したことだ。

 加藤清正公は石垣の名人といわれている人である。侍大将に飯田覚兵衛、足軽大将に三宅角左衛門が石垣を指揮し、足軽たちが石を切った。作業中は幕で覆って人に見せず、秘事としたことを、加藤家の老人から私が直接聞いた。今、その足軽の子孫は水野和泉守様の家中におり、今も石細工をしている。尾張の与力・同心は平岩主計頭(ひらいわかずえのかみ)より伝えられて今もいろいろな石細工を担当している。これが古来からの伝統というものである。


[注解]●太田道灌 1439-1486。戦国武将。江戸城築城で知られる。扇谷(おうぎがやつ=上杉家の一つ)上杉定正に従って武功を立てたが、その定正により謀殺された。和歌にも優れていた。 ●侍大将 さむらいだいしょう。江戸時代の職制の番頭(ばんがしら)に相当。古くは総大将に次いで一軍を指揮する大隊長。室町以降は範囲が狭まり、平士一組を指揮。 ●水野和泉守 水野忠之(ただゆき)。1669-1731。三河岡崎5万石の城主、譜代。吉宗の時に老中として享保の改革を補佐。 ●平岩主計頭 平岩親吉(ひらいわ ちかよし)。戦国から江戸時代初期の武将・大名。譜代。上野(こうずけ)厩橋(うまやばし)藩(前橋藩)、のちに尾張犬山藩の藩主。徳川十六神将の一人に数えられる。ちなみに、犬山は藩として認められたのは明治になってからで、江戸時代は尾張藩の付家老(つけがろう)成瀬(なるせ)家が特に居城を許されて犬山を支配するとともに、尾張家の補佐をした(それは表向きで、実際は監視の意味があった。幕府は御三家のうち尾張については常に警戒していたため。時代劇でも尾張の殿様は幕府に逆らう存在としてよく描かれる)。成瀬家は尾張の付家老という立場ながら徳川の譜代で城主、つまり大名であるため、尾張家が勝手に成瀬家を処分するといったことはできなかった。なお、どの大名でも家老ら家臣が将軍の御目見(おめみえ=対面が許された者)の場合、主君はその家臣を勝手に左遷したり処罰することはできないとされた。


過去の出来事

過去の本日の朝廷や江戸幕府の人事一覧、その他の出来事を紹介します。ほかに昔に関する雑記など。