政談120
【荻生徂徠『政談』】120
(承前) 綱吉公の御代の時分より、公務について、他の者たちの様子を見、前例を確かめることを重視し、何事も慎重にするようになった。衣服、大小(太刀と脇差)の作り、髪の結い方まで、目立つことを嫌い、世間の平均的なものを採るのが無難であるとする。この結果、格式や作法といったものが次第に増えていった。これらは世の中の風潮とともに出来たことで、正しい制度は無いのだから、必ず守らなければならないといういわれはない。ある年に倹約令が出されたが、もともと制度として定めていないのだから、このような令は根拠のないものである。倹約令といっても、せいぜい銀何百目以上の高価なものを用いてはならないといった程度だが、品物によって区別せず、値段によって区別するものの、値段は時に応じて高下し、商人でなければ価値は分からない。そんな状態でただ法度を出しても、はたして人々がこれを守るか、それとも背くか、効果のほどは誰にも分らない。制度を確立せずにただ倹約しろといっても、その効果はほとんどない。
[注解]江戸時代を通じて、倹約令はたびたび出された。古くは参勤交代。これも制度化される以前から加賀を筆頭に各大名が自発的に始めたもので、すぐに横並び的なものになり、家光の時に制度化した。家光は濫費家で、大名たちもそれを真似て大名屋敷を豪華にし、大名行列も金をかけて豪華で派手なものにして競争するまでになった。しかし、そういう無理をすればすぐに破綻し、恨みの矛先は将軍家に向く。それを懸念した幕府は早くも華美にならぬよう、諸事質素倹約を旨とするように令を出した。しかし、はい左様で、しからば、とすぐにはいかないもの。ところが、江戸で明暦の大火が起こり、江戸の町が灰塵と帰したのをきっかけとして華美・贅沢を競う風潮は消え、質実剛健な気風が広まった。しかし、元禄の世になるにつれて商人の台頭とともに再び贅を凝らす風潮が武家にも広まり、かの将軍綱吉はたびたび倹約令を発出。世に悪名高き生類憐憫令とともに盛んに出した。これに対して徂徠は、もともと制度として定めがないのに、ただ倹約をしろ、贅沢はいけないと言っても、どこからが贅沢で、どこまでが倹約なのかが武家も庶民も分からないのだから、守りようがないし、実効のほどもおぼつかない、というわけです。先の大戦の時にも「贅沢は敵だ」というスローガンが鼓吹され、もともと制度として規定がなかったにもかかわらず、官憲がつぎつぎとあれは禁止、これも禁止と定め、道行く人を捕まえては「貴様、それでも日本人かっ」、「この非国民めが!」と周囲に見せしめとなるように大仰に怒鳴り、連行したり、その場で着衣ならはぎ取ったり、髪形ならメチャクチャに壊すこともした。上からの命を受けての取り締まり以上に、上の意思を忖度して過剰な行為として出たものです。現在も日々、法律や政令、省令などが量産されているものの、そのほとんどは多くの国民は知らないし、官報で告示されているとはいえ、それを毎号丁寧に読んで理解する人は専門家でも少ない。出した側はそれで安心し、一度出したものは現実にそぐわないとわかってもメンツにこだわり、それを廃止したり改正しようとしませんが、この国はこういう形とし、このように治めてゆく、といった明確な制度があれば、どんな事が起きても常にその制度を拠り所とすることができる。憲法こそがそれで、特に官憲さえこれを遵守するという精神が徹底していれば乱れることはないのに、今は特にこれを否定する政治家が多く、国民の意思を無視して変えようとしている。制度は国(人々)とともにあるもので、政権とともにあるものではない。300年前の徂徠でさえこれが分かっていたのです。
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