政談117
【荻生徂徠『政談』】117
(承前) さて、今の代には真の礼というものはなくて、小笠原流といったものを礼のように思われている。小笠原の諸礼には上下の区別はなく、ただ真・行・草(しん・ぎょう・そう)というものを立てている。丁寧に念を入れるのを真とし、略式を草とする。このため、丁寧に念を入れたものが真の故実と思われ、近年は何もかも丁寧に念を入れる人を立派な人と思う人が多い。この結果、中頃から人々の心任せに物事につまびらかに念を入れようとする風潮となり、物の数も多くなった。倹約の御触れがあれば、「物の数が多いのは礼である。奢りではない。粗末な物を用いるのが倹約である」と理解されるから、物の数こそ多くとも、個々の物は粗末なものにしようとする。粗末なものも数多く揃えたならば、上等なもの一品よりも物入りとなるが、品数を多くすることがすでに世の風潮となっているのだからどうしようもない。
[注解]●小笠原流 原文は「小笠原という(ふ)もの」。南北朝時代の武将の信濃守護小笠原貞宗(1292-1347)が定めたとされる武家の礼法。江戸時代に広く行われた。
徂徠にとって、小笠原の礼はあくまで形式的なものであり、外見、形を整えればそれが礼であるという風潮では真の礼は理解されにくくなって当然とする。礼については、心から発するものである、とする人と、形から入るのが礼である、とする人がいる。後者は、いくら理解しても、形として表現できないのでは心がこもっておらず、それでは礼とはいえない、ということ。前者は、真心があればおのずからそれは態度、表情として発露されるのだから、形ばかりこだわっていては、形さえ真似ればいいという誤った考えになる、ということ。どちらも、人から言われて無理に合わせるということではなく、自分で理解をし、人から言われずともその場に合わせた態度、対応ができる、それが礼であるということで同じこと。結局は心。道徳という教化にして、それを評価するというのでは、形式主義となり、要領のいい者だけがよい評価をもらうことになるといった懸念がなされているものの、とにかく強制したいという者にとっては、従わせることで分からせる、そうすることで安心したい、ということでしょう。もっとも礼に反する発想、行為ですね。
0コメント