政談112
【荻生徂徠『政談』】112
(承前) 真の制度というのは、往古を見極め、未来を見据え、世界が安穏に末永く豊かになるように、責任ある上の者の料簡でしっかり打ち立てるもの。往古を見極めるというのは、総じて人情というものは時代の移り変わりに関係なく昔も今も同じである。古の聖人はよく人情を知り、人というのは自分勝手で、情によって悪い方へ流れたがることがわかっているから、それを抑える方法も歴史を見れば明らかに知ることができる。また時代の違いにより、少々増減をしなければならないことは『論語』に「損益する処」とあるように、何もかも古を鑑(かがみ)とし、古の中に元とすべきことが備わっている。
未来を見据える制度というのは、今の御代が続く限りは永く守るべきものであるが、とかく質素がよいと言って、質素の度が過ぎる制度を立てると、末の代になるほど派手が好まれ、制度を破る風潮が強くなる。明るく飾り立てたいのが人情だから、制度をあまりきつく立ててしまうと、却って制度が続かず、その趣旨も失われてしまう。ゆえに、名目と実際の兼ね合いを程よくし、末永く伝わることをよく考えたならば、その御代は永く続くものである。
[注解]「損益する処」 論語の為政篇にある言葉。殷王朝は夏(か)王朝の礼(=制度)を踏まえ、周王朝は殷の礼を踏まえているが、その損益する所をよく弁えるべきで、昔の制度がよかったからといって、それをそのまま今実施しても時代や気風にそぐわない部分は逆に制度そのものが悪い作用を及ぼし、人心や国を破壊することにもなる、墨守はいけないということ。明治維新150年ということで、特に現政権は明治時代というより薩長政権を美化し、現憲法まで否定していろいろ画策を始めています。明治を全否定してしまうのは歴史に何も学ばないのと等しく、当時にあっても先進的な知見はいろいろあるのだから、それはこれからも活かす。しかし、むしろそういうものは無視して、権力の強化、国家の肥大化ばかりを目論見、真似るのであれば、その先にあるのは先の大戦の繰り返しであり(しかも、相手は別の近隣諸国)、権力者とその周囲の者たちが益ばかり追い求めた結果、全体が甚大な損をして一巻の終わりとなる。損とならないように損から学び、そこから益が導き出される。損して得取れはナニワの商人の心意気ですが、損をせず、損は国民に押し付けて自分たちは得から得を生み出すことに狂奔しても、自分だけ栄えることはない。膨大な歴史と古典が等しく教えていることを、現代人がすべて無視する。いったい、この感覚は奈辺から生じたのか。
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