政談110
【荻生徂徠『政談』】110
●当時制度これなき事
制度なきという事はどういうことかといえば、昔、聖人といわれた為政者たちが政治をするにあたりまず制度を確立した。これをもとにして上下を区別し、奢りを押さえ、世界を豊かにするいわば妙術といえるものである。以後、歴代の王朝はまず制度を確立させたものだが、徳川の御代は大乱のあとにそのまま武威をもって天下を治めてから時が経過し、もはや昔の制度をそのまま用いることもできず、その上大乱のあとで制度が失われたままの状態が当たり前のようになり、これを改めようともせずそのままにしてしまったため、今の代は制度がなく、上下ともに自分勝手な世界となっている。
[注解]●当時 現在は過去を指す言葉だが、徂徠の当時は「現在」「今時」という意味で使われている。
新たな王朝(政権)が誕生すると、具体的にどのような国家、世の中にするかを掲げ、それにもとづいていろいろな制度、近代においては憲法を定めるものですが、日本の歴史から現在までを見てみると、とにかく天下を取りたい、支配したい、いい思いがしたいという欲ばかりで、為政者として何をするか、具体的なことはほとんど示さない。明治時代になり、政府は口では江戸時代を暗黒時代呼ばわりしながら、国民が求める議会の開設や憲法の制定をいやがり、自由民権を求める運動が起こると弾圧にかかる始末。万機公論に決すとか四民平等と調子のいいことを言ったが、それも薩長の天下になるとむしろ邪魔なものとなった。それでも国民の要求はやまず、次第に政党というものが力を持つようになって政争が起きるようになり、仕方なく議会の開設(議員を選ぶ選挙は厳しく制限されたもので、誰でも議員になれる状況とは大きく乖離していた)や帝国憲法を発布したものの、徂徠が言うように、まず制度や仕組みを確立して、そこから政治が始まるというのとは全く違い、為政者の場当たり的な姿勢で法律や制度を作り、これが実情にそぐわなくてもメンツにかけて墨守しようとするから、ますます害が広がる。戦争も同じで、世論や国際情勢を無視し、政権と軍部だけで決め、内部の反対者を押しのけて「とにかく戦争をする。大義名分は後付けでかまわぬ」という始末。これがいかにも日本的で、今の政権にも言えることです。
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