政談105
【荻生徂徠『政談』】105
(承前) 昔の武士は心がけが良く、急な指示にもすぐ対応できるように準備を怠らなかったが、今の武家は心がけも準備もないのに不思議と間に合うのは、右に述べたように、自由で便利な城下ゆえ、金さえあればどのような火急な事もすべて対応できるからである。その火急な事に乗じて利益を得ようと商人どもが値段を高くするが、武家としてはとにかく急場をしのがなければならないことから、構わず購入して間に合わせてしまうのが今の武家の風俗である。急な出来事がなくても何事に対しても準備をしておくといったことをしない。たとえば、外出して衣服を改めてみると、袴のくくり緒がなかったり、足緒がないことに気づき、急いで中間(ちゅうげん)を走らせて町で買わせる。それが高値であっても気にせず、間に合ったことを喜ぶ。明日の出仕に主人が「家来どもの合羽が見苦しい」と夜になって急に言い出すと、家来がすぐに人を走らせてよいものを買い調えさせる。このように何もかも急に揃えようとするから、いちいち金が余計にかかってしまうのである。
もし間に合わないと、主人はとても不機嫌となるから、女房や用人などと相談して、質に入れて間に合わせ、このことは主人には知らせない。主人に知らせてもどうにもならないから、それが掛け値であっても一切のものをとにかく揃える。商人がいくら高値をふっかけてもどうしようもない。掛け値で買った品物の代金の支払いが滞ると、商人も半分は損をすると考え、更に値段を高くする。急場を間に合わせようと武家では高利にかまわず借金までして買い調える。住まいから器物まですべてこのようにしている状態である。
[注解]●足緒 足皮。太刀の鞘(さや)に二カ所ついている金物に通して腰にくくりつける皮ひも。これがないと刀を腰に固定させることができない。
武士の本務は有事に即応し、主人を警護して奮戦すること。そのため、常に臨戦態勢が建前です。とはいえ、戦国の世も次第に遠い過去のものとなり、戦中派も完全にいなくなった泰平の世では、平素から有事の備えを維持する者などほとんどなく、なにか起きるとそれに必要な物がなく、慌てて買い調える。今すぐ必要なので、値段は気にしていられない。武士だから威張って値切らせようと思ってしまいますが、外国のように値切りに値切って買う、売る方もそれを当然とする習慣が日本にはなく、言い値がすべて。第一、武家ともあろうものが必要なものを安く買い叩いたというのは外聞が悪い。このように人目を気にする意識も強くなった。しかし、商人は武士とは違い、外聞も何もない。武士が弱っているのに付け込んで、高く吹っ掛ける。武士は相場に疎いから、掛け値であってもわからない。もし、あとでそれを知っても、法外な値段だから正しい値にしろ(まけろ)とは意地にかけて言えない。それよりも、手に入った、間に合ったことでホッとする。こういう現状を徂徠が指摘しています。武士は完全な消費者、それも賢くない消費者(商人にとっては悪い意味でのお得意)。
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