政談91
【荻生徂徠『政談』】91
●海路のしまりの事
右のほかに海路のしまりの事であるが、私は海路については不案内のため詳しく述べることはできない。異国の法は、船の建造に大小長短の法を定め、数を決め、積載貨物の法を立てて、船が停泊する所に水駅というものを作り、ここに船の吟味をしている。また、所々に海路の巡検司という官吏を置き、盗賊や非常を吟味する。武家を知行所に置いたならば、このような吟味も可能となる。今は身分の軽い代官の類が吟味をしているため、対応がまちまちである。船は千里をも走るもので、日本は海国なのだから、海路の取り締まりは最も念を入れる必要がある。薩摩から伊豆半島まで2日で着くという。こういった情報は殊の外秘密としなければならない。
巻之一 終
[注解]以上で巻一の終わりとなります。最後は海路についてで、徂徠が海路については知識が十分でないため詳しく述べられないと断っているように、簡単に述べるにとどめている。これは謙遜と本音が半々でしょうが、幕府は海路についてあれこれ述べることを一貫して禁じており、書物に対する取り締まりは時代が下がるにつれて次第に緩和されたものの、海防については逆に厳しくなり、林子平(はやし しへい、元文3年6月21日(1738年) - 寛政5年6月21日(1793年)江戸時代後期の経世論家)が海防の必要性を説いた『海国兵談』を現わしたために発禁。版木没収の上、兄の仙台の屋敷に蟄居となり、そのまま亡くなってしまいました。幕政に口出しをしたためという理由ですが、日本の沿岸に外国船が近づきつつあることを幕閣では察知しており、どう対応してよいかわからず、外様や庶民らが関心を持ったり、外国と通じたり、幕府転覆に利用されるのではないかといったことを警戒し、大型船の建造を禁じたり、海防を論じることをご法度とした。広く国民から叡智を集め対策を練るといったことは当時からせず、極力情報を隠し、国のためにと意見をしようとする自国民を抑圧、相手の成り行きを見て、なにかされたら相手に対して遺憾の意を伝えるにとどめたり、強そうな相手だと朝貢手段を取る。今の政権と変わりませんね。
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