政談90
【荻生徂徠『政談』】90
(承前) 徳川の御代の当初まで外様大名は徳川の敵の子孫であったことから、警戒されるのは尤もである。譜代も武剛の者の子孫でかつては差別することもあったが、今日に至ってはいずれも親類となり、誰も彼もみな江戸育ちで江戸を故郷と思う人ばかりである。それぞれの家中の高禄を食む家来も世代が変わり、代々その家中で人々から畏敬されていることから、主人と大差がない。総じて国持ち大名に奥ゆかしさがあるのは、封地替えをせず、その土地の古くからの風俗を堅持し伝えているからである。されば、罪によっての封地替えは別にして、今後は封地替えは廃止して、逆に家中の家来の武士たちにも知行所を与え、それぞれ自分の知行所に住まわせたならば、軍勢の数も昔に戻り、日本武道の再興となる。これは大切なことである。
[注解]封建制といっても江戸時代のはむしろ異質なもので、封建制ではないとする人もいるほど(福田徳三氏の『日本経済史論』では、延喜の治後の931年から1602年までを封建時代と解し、1603年から1867年(近世江戸期)を「専制的警察国家」(絶対主義)と定義している)。徂徠も周王朝や律令制における在り方に戻すべきという立場で、江戸時代のようにめまぐるしく封地替えをし、武士を城下に集中させるのは、土地や人民への愛着や理解がなくなり、人民もまた武士を尊敬しなくなるため、政治の乱れから天下の乱れになることを懸念している。本書を通じて建言された将軍吉宗はもともと将軍どころか紀州の藩主にすらなれない立場だったために、幼少の頃からかなり自由に育ち、町人や農民らとも交わって、田舎の様子や庶民の気持ちというものを直接感じ取った。この経験が将軍になってから大いに活かされ、たとえば目安箱の設置や庶民のいこいの場として飛鳥山の造成(桜の名所となる)、更には小石川養生所といった医療施設を始めるなど、常に庶民のための政治を実践した。しかし、一方では家康を熱烈に尊敬しており、大名の封地替えも徂徠の建言は聞き入れず続けた。さすがに家光や綱吉のように派手に取り潰すということはしなかったものの、大名は時々異動させるほうが得策であるという考えは変えませんでした。封建という言葉は漢語の「分封建国」から。封地(領地)を分け与えて国を建てさせる、というもの。その国は中央の支配するものとなり、領主(諸侯)は中央の君主の家臣となる。この仕組みそのものは徳川幕府も真似ているものの、大きく違うのが封地替え。これでは、国を建てるというよりも国を委託管理しているに過ぎず、大名はいつ転封されるか、そればかり気にするし、領民はどうせなにかあればご領主さまは別の人になるという気持ちになり、親しみがわかなくなる。
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