政談87
【荻生徂徠『政談』】87
(承前) 医者も田舎に居住した方がよい。江戸で療治を続けていても腕は上達しない。その仔細はというと、第一に江戸は暮らしてゆく上でなにかと物入りであり、暮らしに追われるために大勢の患者を療治し、一人ひとりに念が入らない。高貴な方、権勢ある武家の屋敷にばかり出入りし、衣服を飾り、自分を良く見せようとして何かと偽りが多い。薬が少しでも間違っていたり効かないとなればすぐに医者を変えることから、医者の方ではそうさせないように薬にばかり注意し、なにかと苦労の多い療治が覚えられない。患者の具合が少しよくなったと見るや、そこで体よく「ここらでもうよかろう」と打ち切り、文句が出ない前に受け取りを済ませて悪い評判が立たないようにといったことばかり気にして、患者のその後の具合を見届けようとしない。このために江戸に名医が出ることは決してないのである。ほかのさまざまな技芸もこのようなものだ。とりわけ武士というものは元来、土の上の業をするものだから、田舎住まいをしなければ武道も廃れる。
[注解]「名医」「武道」ともに原文のまま。当時から名医という言葉があり、腕の良い、ひとたび診察すればたちどころに病名がわかり、適切な治療をする。治療といっても漢方による投薬が基本で(つまり内科)、外科的な治療はまだ荒っぽいものでした。かの華岡青洲がはじめて麻酔を使って手術に成功させたものの、それがすぐ普及したわけではなく、西洋医術の伝播で本格的となった。それまでは拷問そのものと言われたように患者を押さえつけて切開したり焼いて傷口をふさぐなど、医者もよほど覚悟があり、悲鳴を上げる患者の姿に克つ人でないと務まらなかった。ちなみに、名医の上に大医(たいい)というのがあり、これは聖人の領域で、ほとんどなにもしないが、見ただけで病気がわかるし、病気になりかけている人、なり易い人を見抜いて、病気を防ぐ指示をする。黙って座ればたちどころに治る、というやつです。
当時の江戸の医者も多くの患者の診察に追われ、個々の患者について最後まできちんと経過を見ることに対してはいいかげんだったことが徂徠の指摘からもわかる。医者はなにかと物入りなので、少しでも稼がなければならない。勢い、金持ちばかり見るようになる。そういう屋敷へ出入りするため、経歴や実績、外見を良くみせる。庶民には薬を与え、ちょっとよくなった(と見えるだけで、実際はその後急変することもよくあった)ら「もうこれでいいでしょう。ではお大事に」とお仕舞にする。次の予約を入れて「お変わりありませんか」とその後の様子を聞くことすらしない。
それから武道。当時は武道とか士道という言葉や概念はあったものの、武士道というのは明治になってから後付けで作られたものです。言葉そのものは若干江戸時代にも用例が見られるようですが、一般的に共有されたものではなかった。これについては折に触れて見てゆくことにします(以前、ツイッターで詳述しましたが)。
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