政談67

荻生徂徠『政談』】67

(承前) 武家が残らず出替わり者を雇うようになり、つり鬚奴(ひげやっこ)の類を好み、供だけをするということが中頃より盛んになった。昔は普請をする場合でも日雇いを使うことはなかった。召し抱えの中間(ちゅうげん)・若党に建築や土木をさせた。親類や知人からも家来を貸してもらって普請をさせたから、物入りも少なくて済んだ。大名は足軽や中間並びに家中の家臣を普請に使う。公儀の普請も旗本の家来を使い、日雇いにさせることはなかった。これはわが祖父の時代、父が若い時の話として聞いたことである。祖父が普請をした際、細川玄蕃頭(げんばのかみ)・有馬左衛門佐(さえもんのすけ)がそれぞれ中間を貸してくださった話は、祖母から伺った。近頃は中間の類は米を搗(つ)くことさえしない。米搗きを商売とする者が城下に出てきたのは、この二、三十年のことで、それ以前にはこんな者はいなかった。


[注解]●つり鬚奴 つり鬚は鎌鬚ともいい、ひげの先をピンとはね上げた形。奴は槍や挟み箱などを持って主人の行列の供先を歩いた。(図はGoo辞書より)


徂徠が言うように、もとは家来を使ったが、次第に庶民を臨時に雇うようになった。ふだんはほとんど必要がなく、登城の時や参勤交代の時ぐらいで、家臣ではこの役目だと遊んでいる時が多く、必要な時だけ雇うほうが経済的だったし、庶民も臨時収入が得られ、殿様の行列の先導として威張ることができたので、人気があった。しかし、これ以外にも普請といったことまで臨時雇いを使うようになり、これだと家臣を使うよりもカネがかかる。昔はどの大名も、そして公儀もすべて家臣にさせていたのに、今は米搗きまでも外注している。時代劇でも時々舂米屋(つきごめや)というのが出てきますが、年貢として収められた米はまだ籾殻(もみがら)がついたままなので、現物支給された武家では、これを精米しなければならない。初期にはそれぞれ自分の家で行っていたものの、重労働である上に石高(こくだか)の多い家は大量になるので、そればかりもしていられない。そこで、これを請け負う商売人が次々と出てきて、舂米屋として成り立つようになったものです。

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