政談56
【荻生徂徠『政談』】56
(承前) さて、「えた」の類には火を一つにしないというのは神国の風俗だから是非もない。らい病者に火を一つにしないというのはいわれがない。孔子の門人で、徳行の科で評価され名を残した冉伯牛(ぜん はくぎゅう)の例がある。重い病はどんな貴人でも罹るものだが、悲田院に棄て、火を一つにしない昔の風俗も、実に愚かなことである。であるから、「乞食」に火を一つにしないというのも聞いたことがない。
[注解]●冉伯牛 孔子の弟子で特に優れた者が72人、その中で徳行の人として、最愛の弟子で孔子より先に早く亡くなった顔淵(がんえん=顔回)、閔子騫(びんしけん)、冉伯牛、仲弓(ちゅうきゅう)の4人が挙げられている。冉伯牛はらい病を患い、病状が悪化して容貌の変化から皆は気味悪がって近寄らなくなり、そのため冉伯牛は自宅にひきこもってしまった。しかし、孔子は気にせず会いにいったが、冉伯牛は孔子にも会おうとしない。孔子は窓から手を差し伸べ、冉伯牛のただれた手を握りながら励ました。冉伯牛は感激して嗚咽した、という話が残っている。
「えた」といった身分制度については徂徠は「神国の風俗だから是非もない」として肯定している。これは徂徠の限界であるとともに、批判されている部分です。しかし、らい病(ハンセン病)のような病気による「火を一つにしない」といった差別は愚かなこととして批判している。現実には「乞食」も差別されているものの、これについても徂徠は火を一つにしないといった昔の制度や風俗は聞いたことがないとして疑問を呈している。徂徠は制度の確立があってこそ世の中が治まり、今、政治も風俗も乱れているのは、家康公が制度を確立しなかったからだ、という立場であり、繰り返し批判しています。戦国の世で武力や権謀術数で勝利し、天下を取ったとしても、そのあと、国家を平定し治めてゆくには法や制度が不可欠。しかし、家康はすぐに秀忠に将軍職を譲って引退、大御所として背後からにらみをきかせはしたものの、法や制度を本格的に整備するといったことはしないまま世を去った。3代家光の時には参勤交代をはじめとした制度が作られたものの、参勤交代にしても当初は各大名たちが自発的に始めたもので、幕府が命じた制度ではない。この他にも対処療法的、あるいはとにかく統制するための制度が作られたものの、もっと根本的なものを作ろうという考えが及ばなかった。徂徠は4代・5代将軍の時代が法治主義が実施されて最もよい状態だったと述べています。この『政談』もまずはその頃の風俗に戻すべきという立場。世の中がおかしくなったら、いくつかある復元ポイントのうち、最善のポイントを選んで実行せよ、といったことです。
「えた」について。以下、辻達也氏の「補注」から転載させて頂きます。
「近世において最下層の賤しい身分として設定され、とくに差別を受けた人々の総称。
古代の律令制度には賤民の制度があったが、律令制の崩壊の過程において良民・賤民の身分制度は解体し、荘園制下に入ると、非農業系の職業に従事する人々を核として、新たに散所の民とか川原者・餌取・犬神人・唱聞師(しょうもんし)・庭者などとよばれて卑賤視せられる人々を生じた。しかし中世においては、その身分・住居・職業・通婚等制度的に固定したものではなく、ことに中世後期の社会的変動の中で、卑賤視的地位を脱却する可能性もあった。
近世になって幕府・諸藩が身分制度を根幹とする支配体制を確立してゆく過程で、百姓・町人という身分の枠に包括しきれぬ一部の民衆を庶民から切離して、えたという卑賤の身分として固定し、居住地域を劣悪な条件の地区に局限・分離し、職業に関しては斃馬牛の処理、皮革・履物の製造、清掃、刑場・牢獄での使役あるいは遊芸・物貰いなどに限定・強制した。こういう差別政策は十七世紀中頃までに漸次確立してゆくと共に、被差別者の人口も増加していった。(中略)えた・非人が百姓・町人に身分をわきまえぬ行為をしたり、百姓・町人とまぎらわしい風体をした場合には厳罰に処すべき旨全国に命令した。」(岩波文庫『政談』補注五三)
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