政談55
【荻生徂徠『政談』】55
(承前) 平人とは別世界ほども隔絶している者たちが増えるのは、あたかも異国人を連れてきて城下に野放しにするようなもので、時が経つにつれてますます増えるだろう。世も末になると、「乞食」の中からどのようなことが出来(しゅったい)するかもわからない。車善七の先祖は上杉景勝(かげかつ)の家来の車丹波という者だが、景勝の草履取りとなり、家康公の命を狙うために家来を連れて江戸に来て、「乞食」の中に身をしのばせたもののすぐ露見した。しかし家康公はふしぎな神慮にて許したばかりか、「乞食」の頭目にさせたという。罰するか赦すか、その境目が政治の道にはよくよく気遣うべきことである。
[注解]●上杉景勝 1555~1623。上杉謙信のおいで、養子となる。秀吉に仕えて五大老の一人となり、会津120万石を領した。関ケ原の戦いで徳川に敵対したことから、出羽米沢に転封の上、一気に30万石に減らされた。出羽米沢の上杉家といえば忠臣蔵でおなじみだが、当時の当主綱憲が吉良上野介の実子で上杉の養子となり、その次男吉良左兵衛が吉良家の養子となり、当主となったことから、吉良家は上杉家と深い関係にあった。上杉家は徳川家からにらまれている状態にあるため、浅野と吉良の騒動には極力距離をおいて関係しないようにしたが、なにしろ当主が吉良の実子ということから、忠臣蔵では討ち入りの知らせを聞いた綱憲が単身でも父を助けに行こうとして、家老の千坂兵部に叱責されながら阻止される場面が有名だが、千坂はすでに故人で、色部又四郎が家老。しかし、綱憲が吉良邸に行こうとしたこと、家老か誰かが身を挺して阻止したことなど、史実としては記録がなく、どうやら上杉家ではとばっちりを恐れて家中一同、びくびくしながらじっとしていたらしい。なにしろこの上減封されたり領地替えされたら謙信公以来の名家が地に墜ちてしまうのだから。
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