政談51

【荻生徂徠『政談』】51

(承前) 「乞食」・「非人」という者は元来種姓に変わりなく、平人よりなった者である。しかるに平人と火を一緒にせず、弾左衛門の手下(てか)にするようになったのは、らい病人が最初であった。世の習わしとして、らい病の人は仏・法・僧の三宝より棄てられた者として京都で悲田院に入れて、火を共にしないことから起こった。田舎では「乞食」は皆らい病人であり、今も同じである。

 江戸では車善七を乞食の頭としている。東照宮(家康)の時からの定めで、古くからの「乞食」の類はその時からの者たちである。近年、無宿人となった新たなこもかぶりの類も善七手下にしているが、これはいかがなものか。新こもかぶりという者は、多くは田舎の百姓で耕作を嫌い、雑穀を食するのを嫌がり、江戸城下へ奉公に来たり、住まいを定めず方々を渡り歩き、年を取ってからは故郷へ帰ることもできず、辻番・門番・同心の荷物持ちなどになった末の者もいる。また、途中で奉公をやめて、棒手振(ぼてふり)やその日暮らしをしていた者の成れの果てもある。道楽にふけって親や親類から勘当された者もいる。浪人の成れの果てもある。いずれも身持ちが悪く、元来愚かな者だがいいかげんな生き方をするのも、世間の風俗に影響されたためであり、その上に近年は世の中が閉塞状況となって生きづらくなっているために、このような者たちが発生した。つまり、これはご政道が悪いゆえに風俗も悪くなり、息苦しい世の中から生じたことなれば、当然の罪であり責任である。


[注解]●「乞食」 被差別民の最下層に「非人」が置かれたものの、「非人」は人別帳に登録され、「非人小屋頭」(江戸では車善七)の支配下に置かれた。罪人の引き回しや死骸、死牛馬の片づけなど嫌われる仕事をさせられたが、いずれもお上の仕事であり、最低限の暮らしは維持された。この他に無宿の「野非人」もいたが、無宿人は取締りの対象で発見されれば拘束され、しかるべき支配者のもとに置かれた。この「非人」より更に下に「乞食」が置かれた。「乞食」は人別帳に載らないために自力で生きていくしかない。この段で述べられているように、「世の習わしとして」らい病(ハンセン病)の人が「乞食」として嫌われ、誰も相手にしなかった。症状が外見に現れるために、その姿に恐れ、遠ざけた。「らい病の人は仏・法・僧の三宝より棄てられた者」という当時の通念もずいぶん酷いものだが、悲田院といった仏教の慈悲の思想に基づいた救済施設が作られていたことはせめてもの救い。 ●棒手振 荷物を担いで売り声を発しながら売り歩く商人。季節や天候、さらには商品の入手(豊作、豊漁、不作、不漁)や出来具合いなどに左右され、生活は極めて厳しかった。

 「非人」も「乞食」ももともと平人と変わらない、という徂徠の言葉は人間そのものをとらえる上では当然のことで、このように言い切るのは当時としてはとても進んだ態度です。しかし、徂徠も時代の人。身分制度そのものは否定せず、むしろ確立させることで世の中の秩序は保たれるという立場。そのため、特にらい病の人などは「乞食」としていることについてはその由来を述べるだけで、批判もせず、改革すべきことも説かない。むしろ、さまざまな原因から成れの果てとして「乞食」になってしまった人たちについて、これはそもそも政治が悪いから正業を放棄したり道楽にふけったり、繁華な江戸にあこがれて住みついたり、あてもなく各地を放浪する者が増え、正業に就かず、本来の土地に定住しない風潮が広まった結果であるとして、厳しく政治を批判している。


過去の出来事

過去の本日の朝廷や江戸幕府の人事一覧、その他の出来事を紹介します。ほかに昔に関する雑記など。