佛像圖彙273
【273】愛敬童子(あいきょうどうじ)
[通釈]
辨財十六童子第十一 愛敬童子 梵字はタラーク
又施願童子と名づく。
開敷蓮華印
本地は観世音菩薩
[解説]
愛敬童子は施願童子ともいい、本地は観世音菩薩とし、右に箭、左に弓を執り、敬愛和合の与願を司る。 「愛敬」は仏語で「あいぎょう」と読み(図のフリガナは「あいきやう」)、優しく、情け深い仏や菩薩のおだやかな相を指す。この言葉が広く使われるようになり、性格、言語、動作などがにこやかで優しく魅力的なこと。思いやりがあり、つつましいことを言うようになった。
[雑記] 「百年後の仏教」
【43】毒鼓主幹 田中智學(1861‐1939 日蓮宗系の在家仏教運動者。東京生れ。幼名巴之助。10歳で得度したが,1879年に還俗,1880年横浜で蓮華会を結成して在家仏教運動を開始。1885年には東京に移って立正安国会を創立,1914年には国柱会を設立した。おもに講演と著述による伝道を展開,おもな著書は『宗門之維新』『本化摂折論』『日蓮主義教学大観』など)
「お尋ねのことは小生に取りては中々の大事件に付、卒爾には述べ兼ね候故いづれ好機を得て卑見可申述候へ共今の佛敎は何宗にても一旦滅失した方がよろしと存じ候。」
質問は私にとってはあまりに大きなことでにわかに述べることはできなすが、今の仏教はどの宗派も一旦消滅したほうがよい、という回答です。
明治新政府により神仏分離が断行されるとともに、仏教は神道より低く見做されるような扱いとなった。さらに、一つの寺院は必ず一つの宗派に属し、単立のものも一つの宗派に限るとされたことにより、江戸時代まではあまり寺院が「当山は何々宗」ということを前面に出さず、さらに、例えばそれまで真言宗の僧侶が代々住持を務めていたのが無住となり、廃寺となっていたのを日蓮宗の僧侶がその寺を復興させ、檀家総代らもそれをよしとするといったことがよくあったのがこれも難しくなり、人々の間でも別の宗派のお寺に宗旨替えすることをよしとしないようになったため、僧侶も世間も、宗派というものを強く意識するようになり、やがて対立や批判なども盛んになった。こういう政治により作為されたものは当然ながら本来の仏教とは違うもの。江戸時代には、一つの大名でも本国の菩提寺と江戸の菩提寺が別の宗派というのも複数みられ、こだわっていなかったことがわかります。
本来、同じ仏教徒なのに宗派を意識し、自分の宗派こそが正しいなどと主張したり他を批判するぐらいなら、一度すべて無くなったほうがよいという極論になるのも無理はないと思います。
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