政談48

荻生徂徠『政談』】48

(承前) 寺の領地に代官を置かないのは、これまたあってはならないことである。近隣の天領や藩の領地を支配して、年貢をその寺に渡している。寺社の門前町は寺社奉行の支配としているが、これは町奉行の支配である。詳しく説明すると、仏道は殺生戒を第一とし、大蔵経の中には国を治める道については一句も無く、公法による罪人を慈悲のために助命し、問題ある者を詫びて済ませるのが今の寺社の作法のようだが、土地を持ち、民を支配する者は、たとえ寺社といえども刑罰によらなければ法が成り立たない。刀を差した者を召し抱えるからには、事と次第によっては切腹を申しつけなければならぬこともある。帯剣の者を供に連れたとて、出先でなんの役に立つものか。覚彦比丘(かくげんびく)は生涯、供の者に脇差すら差させなかった。寺社が土地や人を支配し、年貢を取り、刀を差した者を使っているのは、ただ武家のまねをしているだけであり、仏法の衰退である。仏法を崇敬する上からも、こういうことは規制しなければならない。寺領を寺が支配するから、寺領に悪人が多く隠れ住み、田舎でも寺社領へは守護役人の手が入りかね、これがために訴訟沙汰も起こり、ご政道も行き渡らない。とにかく寺領は近隣の天領や藩に支配させることである。


[注解]寺社の維持・運営のために律令制が採られる以前から寺領が存在し、平安時代以降は荘園として有力な財源となった。しかし、戦国時代には崩壊し、江戸時代には御朱印地として幕府が許可したもののみ所有が許されました。幕府の出来事を日記形式でまとめた徳川実紀などをみると、どこそこの寺に500石(の寺領)を給う、といった記事が散見されます。これはおもに寺に隣接する土地をその寺の所有として認めるというもので、寺の領地は寺社奉行の管轄となります。なお、寺は土地を貰う一方ではなく、返納することもあります。具体的な記事は拙ブログ「過去の出来事」を御覧ください(原則として毎日早朝にUP)。

 寺社の領地は寺社奉行の管轄とはいえ、寺社はそれ自体が一つの世界であり、天皇や将軍たちも信仰・帰依したり、菩提寺もあり、さらには天皇の中には出家して法皇となられる方までいることから、幕府といえども干渉することはできない。寺領内の農民らは寺に年貢を納める。このため、時には一般的な割合よりも多く寺が徴収するなど、格差が生じる。そのため、徂徠は寺領にも代官を置く必要があると述べ、せっかくの公法も寺領では教義が勝り、処罰されるべき悪人も仏の慈悲により赦免、宥恕するといった状態で無視される。膨大な大蔵経(だいぞうきょう。経典およびその注釈書などを集大成したもの)のどこにも政道については書かれておらず、一方では僧侶が外出する時には武士の身なりをした者を供に連れている。いわば治外法権の世界となっているために悪人たちが逃げ込み、公法から逃れようとしている。寺領内に逃げ込まれると町奉行は踏み込むことができない。藩であれば藩の奉行、天領なら勘定奉行の管轄ですが、いずれも寺領には入れない。徂徠はこうした仕組みは悪人をのさばらせるだけであり、寺領は在所の幕府や藩の奉行の管轄とすべきことを提言しています。

勘定奉行と町奉行が旗本の職であるのに対し、寺社奉行は大名が任命される。そのため事なかれ主義でお飾り同然。一定期間務めたら上の職へと異動、出世する。なにかもめごとがあると奉行の瑕疵になるため、寺のことは寺に任せてしまう。勘定・町奉行は旗本の出世コースの最終職であり、大勢の配下もいて気負っているから取り締まりもしっかりしたものになるものの、大名が幕府の公職に就くにあたっては、まず奏者番(そうじゃばん)からスタートして、すぐに寺社奉行を兼務することが多く、まだ若い、それこそ20代の世間をよく知らない殿様が任命されるので、とても指図したり裁くだけの才覚も度胸もない。

 吉良邸に討ち入った46人の処分について、将軍綱吉から相談された徂徠は、公法により処刑すべきだが武士の礼をもって切腹にするのがよいと私見を述べた。公法を厳格に当てはめるならば、浪士たちは武士ではないから斬首(打ち首)が決まりですが、幕府にも慈悲があるという所を示して世論を鎮める意味からも武士としての名誉刑がよいとしたわけです。

 結果的には徂徠の意見が採用されたわけですが、将軍はなおも迷い、日光山の公家出身である公弁法親王にも相談した。法親王は何も答えず、あとで従僧たちに「浪士たちの中には若者もいる。もしこのまま助命したとして、この先、長い人生の間に間違いをしでかさないとも限らない。それではせっかくの行動、名前に傷がつく。将軍は助命を願っていることはわかったが、ここは仏の慈悲にすがり、彼らの名前を未来永劫立派なものとして語り継がれるようにした」などと語ったとされています。但し、この話もあまりに出来すぎているので、多少の脚色はあるかもしれない。ただ、会談が持たれたのは確かです。法親王は仏の慈悲により助命すべしとはせず、慈悲により公法の通りにすることで美名を千載に残すのがよいとした。これはマシなほうで、同じ徂徠が吉宗の代になると嘆くほど「仏の慈悲」により公法が無力化されたり悪人たちの逃げ込むよすがとなった。こういう事態を招来させないためにも、戸籍により人を土地に縛り、法衣を着た者、刀を差した者はそれだけで自由に歩き回れるといったことがないようにしなければならないと説くわけです。


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