政談41
【荻生徂徠『政談』】41
(承前) とにかく戸籍を確立し、人を土地に付ける仕方はいにしえの聖人が考え出したことで、熟慮すべきである。本(もと)を重んじ、末を抑えるということも、いにしえの聖人の編み出した法である。本とは農業であり、末とは工商業である。工商業ばかり盛んになって農業が衰退すれば、世の中は食糧が不足して飢饉となり、手遅れとなる。以上の事に留意して城下の人の戸籍を定めるが、城下の町家には屋敷を持つ家持(いえもち)と店を借りて商売をする店借(たながり)がある。家持は農民における本百姓と同じで、店借は水呑百姓である。いずれもその土地を永く子々孫々までの居所と定め、自由に他の町に店借を替えるといったことがないようにするのがよい定めである。
城下もよく治まり、町村内の関係が睦まじく風俗もよくなった上は、店賃(たなちん)が払えずに溜まってしまうといったことは名主や五人組の責任においていかようにもすればよい。もし、その者が町中で見放している悪人であれば、奉行所に申し出ていかようにも沙汰できるが、当分の間はまずは町の中が荒れないように治め、右に述べたように江戸を四つ五つにも分けて、それぞれに奉行を置き、店替えは一奉行の支配地の中に限るようにする。家持も店借も、何年何月幾日に永く御城下の民とするといった申し渡しを人別帳に記載しておく。店替えをする場合は、いつより替えるといったことを年月日まで詳細に記しておく。もちろん、最初から使用している名や家名を改めることは禁止すべき。
[注解]●本百姓・水呑百姓 本百姓は自立した農民で、人別帳に記載され、年貢を納める義務がある。家屋敷・田畑を所有する。農民の代表である百姓代はこの中から選ぶ。高持(たかもち)百姓とも。 戸籍については以上。水呑百姓は食うものも食わず水だけという貧農のことで、人別帳には記載されず、本百姓のもとで小作人として働く。もちろん、所帯を持てば所帯ごと隷属する。農民の世界も階級制度が徹底され、小作人より下に下人(げにん)があり、これはおもに戦国時代に人身売買された一種の奴隷といえるもの。小作人は下人を含めたものだが、実際には下人は最下層に置かれた。江戸幕府は下人および人身売買を禁止したものの、人手がほしい本百姓と、仕事(収入)が少しでもほしい貧農との思惑が常に一致して達しは守られなかった。中期以降は恵まれた土地を中心に下人は期限を定めた非正規雇用となり状況もかなり好転したものの、土地が痩せているなど厳しい地方では幕末まで下人が存在した。なお、被差別階層の人たちは村に入ることはもちろん、農作物に触れることすら拒否されたため、下人として働くことはできず、死んだ牛馬の処理といったことをさせられた。
戸籍についてはここまで。徂徠が繰り返しいにしえの聖人を引き合いに出しているのは、中国の周王朝の創業者周公がさまざまな制度や礼楽(れいがく)を定めて民生において著しい実績を挙げて先進国家としたことで農業の生産性も向上し、人々が土着してそこを郷里とし、わが土地わが郷里を愛するといった心を持つようになったことを指しています。周公そのものは聖人ではないものの、孔子が非常に周公を敬愛し、夢に周公を見なくなったと言って嘆くほど。孔子のこの態度により、儒家の間では周公も孔子とともに聖人扱いされるようになり(このほかに堯(ぎょう)、舜(しゅん)、禹(う)、湯(とう)、文王(ぶんのう=周公の父)、武王(ぶおう=周公の兄)といった優れた王たちも)、徂徠もこれを踏まえて、周王朝の制度をもととすることを説いています。ただ、数千年も前のものが実情に合うわけはなく、徂徠もそれは心得ている。あくまで、政治の基本は不変であり、大本(おおもと)をいま一度思い返すべきだというわけです。ただ昔がいいというだけなら、本書のようにあれこれ提言することも無用なのですから。
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