政談40
【荻生徂徠『政談』】40
(承前) 田舎の人は習慣で雑穀を食するゆえ、どれだけ人が多くても余ることがない。これも城下とは状況が違うと知るべき。今、城下に数百万の人を集めておき、諸国の米をことごとく城下へ運んでこれを食す。当座は賑やかで繁盛してめでたいことだが、たとえば奥州で何か事が起きれば仙台の米は来なくなる。西国に事あれば上方の米は入るまい。その時は城下の民は飢えて騒ぎ立て、これを鎮めようとしても難しいことである。飢えてどんな事をしでかすかも分からない。「七年の疾(やまい)に三年の艾(もぐさ)」という言葉がある。その時になってはもう手遅れである。諸大名が年貢として集めた米も金銭に換えるため商人に売り渡しており、諸国で何か起きても米がなくてとても難儀する。今は何事がなくても、いずれ飢えにより事が起きるとみなければならぬ。近き憂いがあるのは、遠き慮(おもんぱか)りがないからである。
[注解]●「七年の疾に三年の艾」 『孟子』にある言葉。為政者の心構えのひとつ。疾病(しっぺい)という言葉があるが、「病」は病気一般を指すのに対し、「疾」は悪性、重篤なものを指す。矢が当たって負傷したさまを表わす字。七年間も重い疾(やまい)にありながら、三年間乾燥させることでよい効き目のある艾を急に求めても得られるものではない、という意味で、普段から備えもせずに、急に災害や動乱、戦争が起きても政治は何もできない、何もない時にこそ備えをする必要があるし、為政者は常に先を見据えた政治をするものだ、ということ。
いかに徂徠が政治家としての慧眼があったかを示す段です。江戸城下に人が大勢集まり、米その他の食糧もどんどん江戸に運ばれる。また、武士の俸禄は年貢米を分配した現物支給だが、米をカネに換えないことには必要なものが買えない。そのために大坂堂島に各藩から米が集められ現金に両替した。これが銀行のはじまりであり、大阪が商業の街として発展した理由ですが、このように食糧が過度に都市に集められてしまうと、旱魃や台風、冷害などで凶作となった場合、たちまち食糧不足となり、飢えた民が騒ぎを起こすからこの在り方は変える必要がある、今は何事もないから皆浮かれているが、こういう時こそ政治はいざという時の備えをすべきであると提言した。これが見事に的中し、ほどなくして徂徠が亡くなって4年後の享保17年(1732)、近畿以西の西日本で大凶作となり、江戸の米も暴騰、18年正月には江戸時代になって初めて江戸で「打ちこわし」(暴動)が発生しました。将軍に協力した高間伝兵衛という米商人が米価のつり上げを行っているという噂から1700人の人々が高間宅を襲撃、米や家財道具などを川に投げ入れた。使用人らを丸裸にして木に縛り付けたといった説もあります。当の主人はこの時実家のある房総にいたため難を逃れたものの、このために備蓄していた膨大な米を放出する羽目に。暴動の首謀者数人は流刑に(吉宗だからこれで済んだものの、江戸前期はもちろん、このあとの天保時代でも一揆や打ちこわしの首謀者は極刑に)。
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