佛像圖彙256
【256】誉田八幡(こんだはちまん)
[通釈]
誉田八幡 梵字はキリーク
仲哀天皇の御子応神天皇である。御母は神功皇后である。御誕生の時白幡が四、赤幡が四、天より降ったことから八幡と号した。
本地は阿弥陀如来。
[解説]
誉田八幡は伝・応神天皇陵の前に建つ。通称は御廟山八幡。「誉田」の読みは難読で、大阪府羽曳野市の誉田は「こんだ」。かつて千葉県にあった村の名で、今は外房線の駅名として存在する(地名にもある)誉田は「ほんだ」。他にも「ほまれだ」「よしだ」「よだ」その他、特に人名でいろいろあり、確認しないと失礼になることが多く、気を使う。
誉田八幡の近隣は百舌鳥(もず)古市(ふるいち)古墳群で世界遺産に指定された。なお御廟山古墳は断層上に築造されたため、地震考古学の寒川氏の研究によればズレが生じている由。
[雑記] 「百年後の仏教」
【33】文學博士 建部遯吾(たけべとんご 社会学者、東京帝国大学教授、政治家。新潟県横越村出身。帝国大学文科大学哲学科卒。翌年から講師として母校の社会学講座を担当、1901年東京帝大教授。帝大社会学講座の初代担当教授として長く建部時代を築いた)
「小學敎員以下の住職が半數以上を占むるやうにては『滅亡』の外あるべからず。」
これも痛烈な回答で、住職の半数以上が小学校の教員以下の知識教養のない者たちで、これでは滅亡しかないと喝破。
明治時代の僧侶とはどういうものだったのか。学問研鑽を積むことをせず、「門前の小僧習わぬ経を読む」という格言のように、ただ先代住職から見様見真似で覚えた読経、法要をするだけだったのか。江戸時代には医師も法体姿をしていたことから、遊郭に通う僧侶たちは医師という触れ込みをしたのは有名ですが、いわゆる「生臭坊主」が明治には大勢いたということでしょうか。回答者のお歴々がこれほど厳しく吐き捨てるような言い方をするのは、現実がよほど頽廃的だったからなのかもしれません。単なる思い込みとはいえないでしょう。
僧侶に学問は必要か。確かに、基本的なお経だけでなく、それに対する註釈類もまた「論」として大蔵経に入れられ、広義のお経扱いをされている以上、それが読めて理解できなければならない。
ただ、どの宗派とは言いませんが、ことさら難しく解釈したり、難解な言葉を駆使して他には理解し難いようにしているのを見ると、これは学問の領域を超えており、帝大教授には理解できても、それこそ当時には普通にいた小学校程度の学歴しかない僧侶に同じことを要求するのは酷というもの。
しかし、学歴がないから読経だけできれぱいいというものでもないわけで、僧侶になってからでも、独学でも、また誰かに就いて教わってもよいから、学問研鑽はすべきです。学者は、そのためのお膳立てをすべきで、昔から言われていることですが、大蔵経(一切経)全文の通釈を学者がすべきです。訓読文は戦前にすでになされていますが、訓読文(文語)すら読めない人のために、現代語訳をする。そこを入口として、あとは訓読文、原文へと各自が進むようにすることです。
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