政談39
【荻生徂徠『政談』】39
(承前) 諸国をよく調べてみると、土地は広いが民が少ない所もあり、土地が狭く民が多い所もある。これらを互いにすり合わせる方法もあることだろう。かつて五島淡路守殿が公儀へ願い出て、江戸のこもかぶりを引き取って五島へ連れて行ったことがある。五島に人が少なかったためである。また、現在諸所で新田開発が行われているが、多くは江戸の町人が請負って開発するために現地で耕す人がなく、土地の人を雇うにも住民がなく、このためにせっかくの開発も成就し難いと聞く。こういう所に人を定着させる方法があるはず。出羽や奥州は土地がとても広く、しかも人は少ないという。
[注解]●こもかぶり 「乞食」のこと。当時の身分制度では被差別階級の人たちより更に下にこれが置かれていた。被差別階級の人たちはたとえば江戸であれば車善七(代々これを名乗る)が「非人頭」として管理監督する者がいたように共同体が形成されていたが、「乞食」は完全に孤立、孤独だった。「エタ頭」は弾左衛門で、こちらはのほうが範囲が広く力もあった。
徂徠の政談以前に五島淡路守を名乗ったのは3人おり、江戸のこもかぶりを五島へ連れて行ったという事実が判然とせず、どの淡路守のことか不明。江戸から五島といえば対馬や琉球とともにおそろしく遠隔な地であり、こもかぶりとはいえ強制移住は褒められたことではない。3人の淡路守のうち2人は江戸初期(慶長と寛永)で荒々しい時代だったから、もしこのようなことがなされたとすれば時期的にこの2人のいずれかだと考えられる。3代将軍の濫費と弾圧がひどかったのが寛永度なので、2人めかもしれない。あとの一人は少し下って正保~延宝度で、この頃になると政治も落ち着き、無茶なことはあまりなされなくなった。
本書を贈られた吉宗は新田開発を積極的に進めた。新田開発は村請負いと町人請負いがあり、村請けは村自身で開発し、数年間は年貢が免除(これを鍬下年期という)されたので、農民の意欲も高まり、盛んに行われた。千葉では印旛周辺などで大規模な干拓事業も行われ、東京の武蔵野一帯の市部が開けたのも多くは新田開発によるものです(特に小平市など)。町人請負いは大商人が資本を出して開墾や干拓、治水事業など大規模な新田開発を行った。これも数年の年貢免除はあるものの、大商人が無償で援助したわけではなく、農民は経費を払わなければならないために歓迎されざる制度でした。但し、公共性の強い河川などの改修は公共工事として公金より支出。
このほか代官見立て新田、藩営新田など官営の開発もありますが、多くは民営による新田開発です。吉宗の享保の改革の一つとして、新田の民営化があり、これはこれで田畑が農民のものとして士気が上がるものの、町人請負いを積極的に奨励してしまったため、皮肉にも大商人の力を更に増大させ、つけあがらせてゆくことにもなってしまった。米価の操作ということもこの頃から派手にやるようになり、大岡越前らが必死になって取り締まるものの、結局事態はよくならないまま、吉宗も越前も亡くなってしまいました。
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