政談38

【荻生徂徠『政談』】38

(承前) 民は愚かなもので、後のことをよく考えない。城下での暮らしが悪くなっても、その日暮らしをするには城下のほうが楽であるから、その癖がついて一日一日だらだらと過ごし、城下を離れて故郷へ帰る気持ちが起こらない。また城下に長く住みついているうちに、わずかな田地もなくなり、自分の屋敷に他人が住めば帰る所もなくなる。公儀から帰るようにさせても、故郷から追い出されるのではないかと怨むから、諸国の聞こえも悪く、不仁な行為をするようになる。

 総じて地頭というのはその地を治める職である。三代の諸侯、後世の郡守・県令と同じである。三代の時も国中の民が諸国へ移って減少するのを恥とした。異国の後の世々、日本の昔も、治めるところの国郡の民の増減により、民の数が増えれば良い治めをしており、減れば悪い治めをしていると判断して、これによって国司・郡守を賞罰したことは、異国の歴代の記録、日本では令(りょう)の定めにより明らかである。この趣旨を諸大名・諸地頭へ言い渡し、「地頭はただ年貢を取るだけの役ではない。土地を預かり、その民を預かる上は、民がその土地にとても住めなくなって他国へ逃散することがないようにしなければならない。城下にいる者たちが戻り、元の土地に住みつくようにすることである」と何度も言い聞かせることである。先ごろ、紀州と水戸では人返しが行われた。肥前などでは出家でも他国へ行き、十年経っても戻らぬ時は親類ことごとく処罰されるという。薩摩をはじめ九州の多くの国では民を外へ出さないように厳しくしている。地頭の権柄づくで呼び戻すことはたやすいが、今の諸国の民は耕作をいやがり、米の飯を食うことを喜び、百姓をやめて商人になるゆえ、衰微する村が増えているということをよく耳にする。住民が増えることは地頭にとってよいことであるが、治めの趣旨をよく理解しないため、現状はますますひどくなっている。


[注解]●三代 中国古代の夏(か)・殷(いん)・周(しゅう)の三王朝。いずれの王朝も末期には世が乱れ、暴君が出たが、創業者は名君で、善政によりよく治まり、特に周は法律、制度から音楽に至るまで優れたもので手本とすべきであると孔子が絶賛したことから、特に儒家の間で三代といえば理想の時代とされた。徂徠もこれを踏まえている。 ●令の定め 律令時代、管轄する地区の戸口が十分の一増えれば考課(こうか。勤務評定)で国司・郡司の等級を一等上げ、逆に減れば下げた制度。良い政治をしていれば住民がどんどん移り住み、子どもも増える。逆に悪政・圧制により民を虐げれば民は逃散し、子どもを産まなくなる、といった、極めて単純明快な判断基準。

 徂徠は地頭職について、その職の設けられた意味を確認し、現実には次々と江戸城下へ人が集まり、農業をいやがって商人になる者が増加している状況を憂え、本国へ戻るようにすべきであるが、地頭という立場を笠に着て強権づくでやっても人は定着しない。九州ではずいぶん乱暴なことがされているようだが(九州は外様の大藩が多く、幕府に対する敵愾心が強く、厳重に領民を外へ出さないようにしていた)、そんなことをして人口が一時的に増えたとしても、辛い労働よりも楽しておいしいものを食べ、綺麗な着物を着たいという意識が民にあり、政治をする側も民を圧迫して従わせるといった横柄な気持ちしかなければ、逃散は防ぐことはできないということ。政治家、官公吏にとって重く受け止めるべき基本です。

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