佛像圖彙236
【236】聖眞子(じょうしんし)
[通釈] 聖眞子 梵字はキリーク
文武天皇元年に江州滋賀の郡に現れなされた。八幡大菩薩である。
本地は阿弥陀如来
[解説] 聖眞子は前出。元々は横川の地主神であったと思われる。
[雑記] 「百年後の仏教」
【18】 文学博士 谷本富(たにもととめり 明治から昭和初期にかけての教育学者。ヘルバルト主義教育を紹介、その後国家主義教育、新教育、実験主義教育などを提唱した)
「既成宗敎の形を以てしては只惰性に由り僅に隻影を存するのみならん、是れ余輩の今し特に革新を倡導する所以。」
既成のままでは惰性となり、残影をとどめるだけとなる、革新が必要である、としています。具体的なことは著書に書かれているようですが、形にとらわれ過ぎて精神(釈迦の教え)が脇にやられるようでは本末転倒だし、日々勤行をし、随時法事法要をすれば僧侶としての務めは果たしていると自己満足していては、教えは広まらないし、後継者もいなくなる。過去があっての今ですが、未来に向けて何をすべきかは今に生きる人たちの努力と思案が必要。昔からやっているものをそのままやるだけというのでは、伝統芸能と同じ。衆生は見て楽しむだけ。そのうち、楽しいとも思わなくなり、見向きもされなくなる。
今は悪疫流行ということで寺院がネットによるライブ参拝、法話を導入しており、寺院や仏教に関心を持つ人が増えていますが、とりあえず悪疫が落ち着いた状況になると、仏法僧にすがるという人も減ることは確実。また、寺院の中にも、悪疫が収束した時点で配信はやめるとしている所もあります。そうなると、また寺院は行きづらい場となり、見向きもされなくなる。寺院が宣伝をする必要はありませんが、新しい手法は未来に向けての足掛かりとして取り入れ、将来の更なる悪疫流行といった事態に備えることは無意味ではないと考えます。
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